今回は、8章40~56節を読みます。ここには、ヤイロという会堂長(礼拝を行なう施設の責任者)とその娘のお話に挟まれるようにして、出血の病を患っていた女性のお話も伝えられています。
40 イエスが帰って来られると、群衆は喜んで迎えた。人々は皆、イエスを待っていたからである。41 そこへ、ヤイロという人が来た。この人は会堂長であった。彼はイエスの足もとにひれ伏して、自分の家に来てくださるようにと願った。42 十二歳ぐらいの一人娘がいたが、死にかけていたのである。イエスがそこに行かれる途中、群衆が周りに押し寄せて来た。
弟子たちと共にガリラヤ湖の向こう岸のゲラサに渡っていたイエス様は、カファルナウムに戻ってきました。人々は、イエス様が帰ってこられたことを喜んでいました。そこに、この町の会堂長であるヤイロという人がやって来たのです。
4章31~37節によれば、カファルナウムの会堂では、ある安息日に、イエス様が悪霊に取りつかれた人から悪霊を追い出しており、会堂長であるヤイロはそれを知っていたと思われます。
また、それに続く38~41節によれば、イエス様はその安息日の夕方に、シモンの家でしゅうとめの高熱を癒やしており、それはカファルナウムの会堂に礼拝に行っていたシモンの妻が要請したことでしょうから(第9回参照)、その出来事もこの会堂長は耳にしていたでしょう。そうでなくても、カファルナウムの町で数々の力ある業を行っていたイエス様のことを知っていたと思います。
ヤイロには、12歳の一人娘がいました。彼にとっては、どれほどこの娘が大切であったことでしょうか。ところがその一人娘が病で死にかけていたのです。ヤイロはカファルナウムに帰ってきたイエス様の所に行き、その足元にひれ伏して、「私の家に来てください」と言ったのです。会堂というのは、地域コミュニティーの要所でもあり、会堂長といえば、その地域で相当に力を持っていたはずです。そのヤイロが、イエス様にひれ伏して懇願したのです。そこでイエス様はヤイロの家に向かいました。その道すがらも、多くの人々が付き従っていました。
出血の病を患う女
43 ときに、十二年このかた出血が止まらず、医者に全財産を使い果たしたが、だれからも治してもらえない女がいた。44 この女が近寄って来て、後ろからイエスの服の房に触れると、直ちに出血が止まった。45 イエスは、「わたしに触れたのはだれか」と言われた。人々は皆、自分ではないと答えたので、ペトロが、「先生、群衆があなたを取り巻いて、押し合っているのです」と言った。46 しかし、イエスは、「だれかがわたしに触れた。わたしから力が出て行ったのを感じたのだ」と言われた。47 女は隠しきれないと知って、震えながら進み出てひれ伏し、触れた理由とたちまちいやされた次第とを皆の前で話した。48 イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」
ヤイロの家に向かうイエス様と群衆に、12年間出血の病を患っていた女が近寄ってきたのです。きっとこの女は、資産家の娘であったのではないでしょうか。しかし、持っているお金をさまざまな医者に使い果たし、それでもその病を治すことができないでいました。ヤイロの娘は12歳ですが、その年齢と同じ期間を病と闘っていたのです。彼女はイエス様に触れさえすれば癒やしてもらえると考えて(マルコ5:28参照)、ヤイロの家に向かっているイエス様の後方から、その服の房に触れたのです。
そうしますと、彼女の出血がぴたりと止まったのです。イエス様は自分から力が出ていったことに気付き、「わたしに触れたのはだれか」「だれかがわたしに触れた。わたしから力が出て行ったのを感じたのだ」と言われました。彼女は進み出てひれ伏し、そこにいた人たちに事の次第を説明しました。
それに対してイエス様は、「娘よ、【あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい】」と言われました。【 】の部分は、前回お伝えした罪深い女に対して言われた最後の言葉と同じです。罪深い女も、この出血の病を患っていた女も、当時のユダヤ社会においては、いわば「不浄な者」でした。不浄な者は社会において排除されます。排除される者は排除されることが恐怖であったでしょう。イエス様の「安心して行きなさい」という言葉は、その「排除される恐怖」からの解放の言葉なのです。
「そうすれば、娘は救われる」
49 イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。この上、先生を煩わすことはありません。」 50 イエスは、これを聞いて会堂長に言われた。「恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われる。」
話はヤイロの娘に戻ります。ヤイロの家から使いが来て、ヤイロの娘の死を告げます。するとイエス様は、ヤイロに対して「恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われる」と言ったのです。たった今、出血の病を患っていた女が癒やされて、彼女に対して「あなたの信仰があなたを救った」と宣言していましたから、ヤイロに告げたこの言葉にも、説得力があったと思います。
今回の、ヤイロの娘と出血の病を患う女のお話は、マタイ福音書9章18~26節とマルコ福音書5章21~41節にもありますが、イエス様の「そうすれば、娘は救われる」という言葉は、ルカ福音書だけが伝えているものです。こういった点がルカ福音書の特徴だと思います。ヤイロの娘のお話は、人間の蘇生という大きなことを伝えていますが、ヤイロにしてみれば、それは娘と共に再出発ができるということであり、ルカ福音書はそのことを強く伝えているのだと思います。つまりそれは、繰り返し伝えてきたルカ福音書のテーマである「やり直せます」ということを伝えているのです。
ヤイロの娘の蘇生
51 イエスはその家に着くと、ペトロ、ヨハネ、ヤコブ、それに娘の父母のほかには、だれも一緒に入ることをお許しにならなかった。52 人々は皆、娘のために泣き悲しんでいた。そこで、イエスは言われた。「泣くな。死んだのではない。眠っているのだ。」 53 人々は、娘が死んだことを知っていたので、イエスをあざ笑った。54 イエスは娘の手を取り、「娘よ、起きなさい」と呼びかけられた。55 すると娘は、その霊が戻って、すぐに起き上がった。イエスは、娘に食べ物を与えるように指図をされた。56 娘の両親は非常に驚いた。イエスは、この出来事をだれにも話さないようにとお命じになった。
ヤイロの家に着くと皆が泣いていたとありますが、この人たちは「泣き人」であったかもしれません(第14回参照)。イエス様は、娘は「眠っているのだ」と言われますが、皆にあざ笑われます。しかし「娘よ、起きなさい」とその手を取って言うと、彼女は生き返ったのです。
イエス様は、娘に食べ物を与えることを命じます。これは彼女が生き返ったことを強く意味していることです。復活したイエス様が、魚を食べる場面(ルカ24:41~43)を連想します。居合わせた一同は大変驚きますが、イエス様はこの出来事を誰にも話さないように命じます。
こうして、ヤイロの娘のお話と、出血の病を患う女のお話は終了します。女性が主人公であるといってよい2つのお話は、読む者をとりこにしてやみません。前述したとおり、このお話はマタイ福音書とマルコ福音所でも伝えられていますので、他の福音書も読み、それぞれの良さを味わってもよいかもしれません。(続く)
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