今回は4章38~40節と5章1~11節を読みます。
4:38 イエスは会堂を立ち去り、シモンの家にお入りになった。シモンのしゅうとめが高い熱に苦しんでいたので、人々は彼女のことをイエスに頼んだ。39 イエスが枕もとに立って熱を叱りつけられると、熱は去り、彼女はすぐに起き上がって一同をもてなした。40 日が暮れると、いろいろな病気で苦しむ者を抱えている人が皆、病人たちをイエスのもとに連れて来た。イエスはその一人一人に手を置いていやされた。
5:1 イエスがゲネサレト湖畔に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た。2 イエスは、二そうの舟が岸にあるのを御覧になった。漁師たちは、舟から上がって網を洗っていた。3 そこでイエスは、そのうちの一そうであるシモンの持ち舟に乗り、岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。そして、腰を下ろして舟から群衆に教え始められた。4 話し終わったとき、シモンに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われた。5 シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。6 そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。7 そこで、もう一そうの舟にいる仲間に合図して、来て手を貸してくれるように頼んだ。彼らは来て、二そうの舟を魚でいっぱいにしたので、舟は沈みそうになった。8 これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言った。9 とれた魚にシモンも一緒にいた者も皆驚いたからである。10 シモンの仲間、ゼベダイの子のヤコブもヨハネも同様だった。すると、イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」 11 そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。
シモンの家で
前回、イエス様がナザレの会堂で話されたことをお伝えしました。その後、イエス様はカファルナウムに行かれ、そこでも安息日ごとに教えておられました。ある安息日の夕方、イエス様は漁師シモン(ペトロ)の家に行きます。これは、ラビを安息日の祝いの食事に招く習慣によるものと考えられているようです(嶺重淑〔みねしげ・きよし〕著『NTJ新約聖書注解 ルカ福音書1章~9章50節』190ページ参照)。
以下は私の想像になりますが、シモンの夫人が安息日の礼拝に出席していて、その後イエス様を自分の家に招いたのではないでしょうか。夫人には、高熱で苦しむ母親がいました。「イエス様なら治してくださるかもしれない」という思いがあったのではないでしょうか。
イエス様がシモンの家に到着すると、シモンは即座に、しゅうとめである彼女の熱を下げてくださいとお願いします。イエス様は彼女の枕元に立って熱を叱りつけます。そうすると彼女はすぐに起き上がります。
実は、同じお話はマルコ福音書1章31節にもあります。しかし、マルコ福音書には「すぐに起き上がって」という言葉がありません。私は、このような伝え方がルカ福音書の特徴だと考えています。今までに申し上げてきましたように、ルカ福音書は「やり直せます」ということをテーマとしています。イエス様に力を頂くことによって、「再起」する様が伝えられているのです。シモンのしゅうとめの癒やしは、まさにそのお話しです。
彼女は起き上がって、家に来ている人たちをもてなしました。マルコ福音書1章29節によるならば、そこにシモンの漁師仲間である、ヤコブとヨハネの兄弟もいました。
その後、病気で苦しむ人を抱えた人たちが、病人たちを癒やしてもらうためにシモンの家に来ます。イエス様は一人一人に手を置いて癒やされました。
教会の予兆としての舟の出来事
イエス様はその後、ユダヤの諸会堂で宣教され、ある日ゲネサレト湖(ガリラヤ湖の別名)の岸に立っておられました。そうすると人々が話を聞こうと集まってきたのです。またゲネサレト湖には、漁が終わり、網を洗っているシモンとヤコブとヨハネがいました。3人は一晩中漁をしたのですが、魚が獲れなかったようです。
舟は2そうありました。シモンの舟と、ヤコブとヨハネの舟であったようです。イエス様はシモンの舟に乗り、シモンに沖に漕ぎ出すよう頼まれます。しゅうとめの高熱を癒やしていただいたシモンは、即座にそれに応えました。そして沖に出たところで、イエス様は岸にいる人たちに語り出したのです。
同じような光景が、マタイ福音書13章1~52節にもあります。そこでもイエス様は、ガリラヤ湖で舟を沖に漕ぎ出し、岸にいる人たちに語っています。山上の説教のように、幾つかの説教をなさっているのです。私はこの箇所を、山上の説教に即して「船上の説教」と呼んでいます。
山上の説教もそうですが、この船上の説教も、それは教会の予兆です。イエス様が人々に説教する様は、今日の教会で説教がなされている姿の予兆なのです。その意味では、ルカ福音書5章1~11節の舟での宣教も、教会の予兆です。
ただし、ここでは聴衆に語るということだけでなく、シモンのこの後の回心も教会の予兆たる出来事です。群衆への説教が終わると、イエス様はシモンに「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われました。シモンにしてみれば、「プロである自分たちが一晩中漁をしても何も獲れなかったのだから、再び網を降ろしても獲れるはずがない」という思いがあったと思います。
しかし、しゅうとめの高熱を癒やしていただき、今はまた権威ある教えを聞かせていただいたシモンは、イエス様を信頼していました。そこで「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と言い、ヤコブとヨハネと共に再び漁を行います。
そうすると、網が破れるほどの魚がかかり、もう一そうの舟の漁師たちに援助を要請します。シモンたちの舟と仲間たちの舟が魚でいっぱいになり、沈みそうになるほどでした。第1回でお伝えしましたように、私はこのことを、私たちがイエス様のメッセージを聞くことによって、「やり直せます」ということが実現するということだと考えています。
ところが、これを見たシモンは、イエス様の足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言ったのです。シモンは、イエス様のなされた出来事の偉大さに驚きつつ、この人が正しいお方であり、主であることを知らしめられ(「説教黙想 アレテイア」74号69ページ参照)、逆に「わたしは罪深い者」と、自分自身を謙虚に至らしめられたということです。
これは、極めて教会的な出来事です。私たちが教会で福音を聞き、聖霊が働かれることにおいて一番大切なことは、「わたしは罪深い者」であることを知らしめられることです。ですから、舟の上でのペトロの回心は、極めて教会的な出来事なのです。
弟子たちの召命
イエス様はシモンに「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」と言われました。そうするとシモンとヤコブとヨハネは、舟を陸に上げて、すべてを捨ててイエス様に従ったのです。彼らは、イエス様が十字架にかかり復活され昇天した後も、宣教者としての歩みをしました。それは、魚を獲る漁師とは違い、他者に対する愛の営みである「人間をとる漁師」という働きでした。
ガリラヤ湖のピーターフィッシュ
余談になりますが、私はガリラヤ湖で「ピーターフィッシュ」という魚を食べたことがあります。ピーターとはペトロの英語名です。マタイ福音書17章24~27節には、神殿税を納めないのか問われたペテロが、どうすればよいかイエス様に尋ね、イエス様が魚を釣ればその口の中に銀貨があるから、それで納税しなさいと話す場面が記されています。ピーターフィッシュという魚の名前はこのお話に由来するとされていますが、漁師時代のペトロが獲っていたのもきっとこの魚でしょう。30センチばかりある、身の大きい白身の魚で、味は淡白で大変おいしかったです。機会があればぜひ召し上がってみてください。(続く)
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