このコラムは、2022年度いっぱいの連載予定です。ルカ福音書は24章ありますから、1カ月に2章のペースで進めていくことになります。週1回の掲載であることを鑑み、適宜お話を取り上げていきたいと思います。特に、ルカ福音書に固有といわれているお話を中心にお伝えしていきます。
ガリラヤに戻られたイエス様
荒れ野で悪魔の誘惑に打ち勝ったイエス様は、ガリラヤにお帰りになります。今回はそこでのことが記されている4章14~30節を読みましょう。
14 イエスは“霊”の力に満ちてガリラヤに帰られた。その評判が周りの地方一帯に広まった。15 イエスは諸会堂で教え、皆から尊敬を受けられた。
16 イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。17 預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。18 「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、19 恵みの年を告げるためである。」 20 イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。21 そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。22 皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。「この人はヨセフの子ではないか。」23 イエスは言われた。「きっと、あなたがたは、『医者よ、自分自身を治せ』ということわざを引いて、『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ』と言うにちがいない。」 24 そして、言われた。「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。25 確かに言っておく。エリヤの時代に三年六か月の間、雨が降らず、その地方一帯に大飢饉(ききん)が起こったとき、イスラエルには多くのやもめがいたが、26 エリヤはその中のだれのもとにも遣わされないで、シドン地方のサレプタのやもめのもとにだけ遣わされた。27 また、預言者エリシャの時代に、イスラエルには重い皮膚病を患っている人が多くいたが、シリア人ナアマンのほかはだれも清くされなかった。」 28 これを聞いた会堂内の人々は皆憤慨し、29 総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした。30 しかし、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた。
時系列でお伝えしますと、ガリラヤのカファルナウムという大きな町に行き、そこで力ある大きな業をなされたようです。病気の人を癒やしたのだろうと思います。その後、故郷であるナザレに行かれたのです。16~30節には、その様子が記されています。ナザレでは、安息日ごとに会堂で教えられます。これはイエス様がラビ(ユダヤ社会における宗教指導者)であったからです。
「やり直せます」というイエス様の宣教
16~21節には、ある安息日にイエス様がイザヤ書61章1~2節を読まれたことが記されています。しかし、これはただ読まれたということではなく、そこに書いてあることをイエス様が実行され、聞いている人たちが、預言の通りにされていくことを宣言したものです。それが、21節の「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」ということの意味であろうと思います。
私がルカ福音書のテーマを「やり直せます」であると考えていることは、第1回からお伝えしてきました。ナザレでの宣教は、マタイ福音書とマルコ福音書にも記されていますが、イザヤ書朗読の記事はルカ福音書にしかなく、それは「やり直せます」という内容のものです。
イザヤ書の朗読は、「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである」から始まります。「貧しい人に福音を告げ知らせる」は、1章52~53節で提示されたルカ福音書の主題「身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし」に合致するものです。貧しさとは、私の解釈では、物質的に貧しい状態というよりも、むしろ失敗している状況を差すものです。身分の低い人を高く上げ、飢えた人を良い物で満たすとは、今は失敗している状況であっても、そこからやり直せるということなのです。
続けて読まれたイザヤ書には、「捕らわれている人に解放を」とあります。これは、「自分のわがままにとらわれている人、自分のことだけで頭がいっぱいで、他人に目を向けることができないほど自己中心に陥っている人たちに、真の自由、本当の解放を告げること」と解釈するのがよいと思います(エドモンド・ネメシュ著『聖書と私たち1 ルカによる福音書』164ページ参照)。
いうならば、福音によって自由を得ることです。自由は、他者を尊重することによって与えられるものなのだと思います。他者の価値を否定しているとき、そこに自己中心が発生し、私たちの心は拘束されてしまいます。イエス様は、私のために十字架にかかってくださった方ですが、他者のためにもそれをなさってくださった方です。それに倣い、他者の価値を大切にすることが、福音によって自由を得るということではないかと思います。その自由を得たときに、他者との関係が回復され、私たちはやり直すことができるのです。
続けて、「目の見えない人に視力の回復を告げ」が読まれました。この場合の「目の見えない人」とは、「物事を正しく見る目がない人」という解釈がよいでしょう。「視力の回復」とは、正しい判断ができるようになるということでしょう(上記同ページ参照)。言い換えるならば、これは「正義」の問題です。
しかし正義とは、自分の考えを正しいとすることではなく、あるいは自分の考えこそが神様の御心に合致しているのだとすることではないでしょう。十字架にかかって私たちの罪のために死んでくださったイエス様の御前で、自分が罪人であることを知り、祈りによって何が正しいのかを教えていただくことだと思います。そうすることによって、自らの過ちを悟らされ、私たちはやり直すことができるのです。
3番目に、「圧迫されている人を自由にし」という言葉が読まれます。これは、さまざまな束縛から解放され、神様の愛の中でのびのびと明るく生きることです(上記164~165ページ参照)。私たちはそのようにされていくときに、心身が生き生きとし、やり直していくことができるのです。
「自由」「正義」「神様の愛」、これがやり直すためのポイントだと思います。
ナザレの人たちの寝返り
これらの話を聞いていたナザレの人たちは、イエス様の言葉の恵み深さに驚きます。しかしイエス様は、「きっと、あなたがたは、『医者よ、自分自身を治せ』ということわざを引いて、『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ』と言うにちがいない」という、いわば預言の言葉を語られます。前回、悪魔がイエス様を神殿の屋根に立たせて、「ここから飛び降りたら人気者になれるぞ」という誘惑をしたとお伝えしましたが、人々がそうした誘惑にかられることを予告したのです。「この村にはイエスというヒーローがいるぞ」と自慢したいという誘惑です。
そしてイエス様は、「預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ」ということわざを引き、エリヤとエリシャの例を引き合いに出されます。そうすると、イエス様の言葉を喜んで聞いていたナザレの人たちは、イエス様を崖から突き落とそうとします。しかし、イエス様は人々の間を通り抜けて立ち去られました。それは、まだイエス様の受難の時ではなかったからです。(続く)
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