マリアの賛歌における「アブラハムの子孫」
本コラムの第1回で、ルカ福音書1章47~55節の「マリアの賛歌」のうちの52~53節は、この福音書の主題部分であるとお伝えしました。今回はその後の54~55節を掲載します。
54 その僕(しもべ)イスラエルを受け入れて、憐(あわ)れみをお忘れになりません、55 わたしたちの先祖におっしゃったとおり、アブラハムとその子孫に対してとこしえに。
神様はアブラハムに対して、「わたしは、あなたとの間に、また後に続く子孫との間に契約を立て、それを永遠の契約とする。そして、あなたとあなたの子孫の神となる」(創世記17:7)という約束をされており、マリアは「神様はその約束を忘れることはない」と歌っているのです。
ザカリアの預言における「アブラハムの子孫」
ルカ福音書1章68~79節は、洗礼者ヨハネの父でありエリサベトの夫であるザカリアによる預言です。これは「ベネディクトゥス」とも呼ばれています。この預言のうちの72~75節においても、アブラハムに対する契約が語られています。その箇所を掲載します。
72 主は我らの先祖を憐れみ、その聖なる契約を覚えていてくださる。73 これは我らの父アブラハムに立てられた誓い。こうして我らは、74 敵の手から救われ、恐れなく主に仕える、75 生涯、主の御前に清く正しく。
第2回において、「ルカ福音書の特徴の一つは、男女がペアになっているものが多いことです」とお伝えしましたが、「マリアの賛歌」と「ザカリアの預言」も男女のペアによるものということができるでしょう。幼子イエスの受胎に対する感謝であり、洗礼者ヨハネの誕生に対する感謝でありますから、両者とも神様に感謝する敬虔なものとなっています。
そして、両者とも神様がアブラハムとの契約を守ってくださっていることへの感謝を述べています。実際、イスラエルの歴史においては、アブラハムの契約の後、エジプトでの奴隷的経験と脱出、ダビデ王朝時代後のバビロン捕囚、アンティオコス4世エピファネス時代の圧政など、さまざまな困難がありましたが、そのたびに神様はイスラエルを守ってくださったという思いが強かったのでしょう。マリアの賛歌やザカリアの預言を読むと、そういったイスラエルに対する神様の愛を感じることができます。
洗礼者ヨハネの教え
1章で洗礼者ヨハネの誕生が伝えられた後、2章ではイエス様の誕生と少年時代の記述がなされています。洗礼者ヨハネについては少年時代の大きな記述はなく、3章で教えを宣(の)べている姿が伝えられています。その箇所の前半部を掲載します。
1 皇帝ティベリウスの治世の第十五年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟フィリポがイトラヤとトラコン地方の領主、リサニアがアビレネの領主、2 アンナスとカイアファとが大祭司であったとき、神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った。3 そこで、ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦(ゆる)しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。4 これは、預言者イザヤの書に書いてあるとおりである。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。5 谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、6 人は皆、神の救いを仰ぎ見る。』」
7 そこでヨハネは、洗礼を授けてもらおうとして出て来た群衆に言った。「蝮(まむし)の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。8 悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などという考えを起こすな。言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。9 斧(おの)は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。」10 そこで群衆は、「では、わたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねた。11 ヨハネは、「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」と答えた。12 徴税人も洗礼を受けるために来て、「先生、わたしたちはどうすればよいのですか」と言った。13 ヨハネは、「規定以上のものは取り立てるな」と言った。14 兵士も、「このわたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねた。ヨハネは、「だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ」と言った。
8節の「悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などという考えを起こすな。言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる」は、イスラエル人でない者、すなわち異邦人も、アブラハムの子孫になることを意味しています。これは、イエス・キリストを指し示しており、新約的意義を持つものです。
パウロも、「だから、信仰によって生きる人々こそ、アブラハムの子であるとわきまえなさい」(ガラテヤ3:7)と書いています。イエス・キリスト以後は、イスラエル人だけがアブラハムの子孫ではなく、イエス・キリストを信じる信仰に歩む者は、アブラハムの子孫であるということです。洗礼者ヨハネもパウロも、この点においては共通の認識を持っていると思います。
洗礼者ヨハネはさらに、「斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」と、審判の言葉を宣べています。そうすると、それに対して群衆、徴税人、兵士から、「では私たちはどうすればよいのか」という問いが出されます。この兵士は、ローマ帝国の兵士ではなく、ヘロデ・アンティパスの軍隊の兵士と考えられています(嶺重淑〔みねしげ・きよし〕著『NTJ新約聖書注解 ルカ福音書1章~9章50節』139ページ参照)。
洗礼者ヨハネは、群衆に対しては「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」と、徴税人に対しては「規定以上のものは取り立てるな」と、兵士には「だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ」と返答しています。
洗礼者ヨハネの宣教の話は、マタイ福音書とマルコ福音書にもありますが、上記の3つの会話はルカ福音書のみに固有のものです。いずれの返答も、結果的に社会における他者との関係改善に向かうことを説いています。これは、私がルカ福音書のテーマであると考えている「やり直せます」ということに合致するのではないかと考えています。
アブラハムの息子と娘
ルカ福音書には、さらに一対の「アブラハムの子」の話があります。それは第2回でお伝えした、男女のペアとしての「アブラハムの息子・ザアカイ」(19章1~10節)と「アブラハムの娘・癒やされた女性」(13章10~17節)です。いずれも当該箇所のコラム執筆時に詳しくお伝えしますが、「やり直せます」という内容を持っているのです。つまり、洗礼者ヨハネにしてもザアカイにしても癒やされた女性にしても、アブラハムの子孫という言葉は「やり直せます」というところに向かって記されているのです。
アブラハムの子孫とは、旧約の時代はイスラエル民族のことを指していましたが、新約の時代においてはイエス・キリストを信じる信仰に歩む人のことです。ルカ福音書では、それは「やり直せます」というところに向かって伝えらえているように思えます。イエス様に導かれて私たちは、いつからでもやり直せるのです。(続く)
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