今回は、6章37~49節を読みます。
37 「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦(ゆる)しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。38 与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤(はかり)で量り返されるからである。」
39 イエスはまた、たとえを話された。「盲人が盲人の道案内をすることができようか。二人とも穴に落ち込みはしないか。40 弟子は師にまさるものではない。しかし、だれでも、十分に修行を積めば、その師のようになれる。41 あなたは、兄弟の目にあるおが屑(くず)は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。42 自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向かって、『さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください』と、どうして言えるだろうか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる。」
43 「悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。44 木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる。茨からいちじくは採れないし、野ばらからぶどうは集められない。45 善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。人の口は、心からあふれ出ることを語るのである。」
46 「わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか。47 わたしのもとに来て、わたしの言葉を聞き、それを行う人が皆、どんな人に似ているかを示そう。48 それは、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている。洪水になって川の水がその家に押し寄せたが、しっかり建ててあったので、揺り動かすことができなかった。49 しかし、聞いても行わない者は、土台なしで地面に家を建てた人に似ている。川の水が押し寄せると、家はたちまち倒れ、その壊れ方がひどかった。」
今回の箇所もマタイ福音書の「山上の説教」、特にその7章に対応しています。
禁止命令と行動命令
前回、旧約聖書の黄金律は「自分が嫌なことは、ほかのだれにもしてはならない」であり、新約聖書の黄金律は「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」であって、新約の時代に生きる私たちには両方とも大切であることをお伝えしました。またこの2つは、前者は禁止命令であり、後者は行動命令ということができます。
今回の37~38節では4つのことが教えられていますが、最初の2つは「人を裁くな」「人を罪人だと決めるな」という禁止命令であり、後の2つは「赦しなさい」「与えなさい」という行動命令です。そういった点では、この4つの教えは、旧新約聖書の2つの黄金律を展開しているように思えます。
イエス様は、「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」(マタイ5:17)と語られていますが、ここでいわれている「律法や預言者」とは、「自分が嫌なことは、ほかのだれにもしてはならない」という旧約聖書の黄金律が具現されたものであり、それを廃止するためではなく完成させたものが、「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」という新約聖書の黄金律であるとも言い得るでしょう。
つまり、イエス様ご自身も、2つの黄金律を「両方とも大切である」とされているのです。そして、2つの黄金律と似せて語られている37~38節は、2つの黄金律の架け橋となる言葉である、といえるのではないかと思います。
例えで語られる
マタイ福音書の山上の説教は、いざイエス様のお話が始まると、解説なしで最後まで進みます。しかし、ルカ福音書のこの一連の説教では、「イエスはまた、たとえを話された」という、語り手の言葉が入っています。そしてこの後、説教が一旦終わる49節まで比喩的なお話が続いています。
最初に、「盲人が盲人の道案内をすることができようか。二人とも穴に落ち込みはしないか」と語られていますが、前述のように例えによるお話しですから、盲人という言葉が何かを例えていることになります。ここでは、お弟子さんたちが後に教会の指導者になることを見越して、「自分のやっていることの善し悪しが判断できる目を持った指導者になりなさい」と言われているように思えます。
続けて、「弟子は師にまさるものではない。しかし、だれでも、十分に修行を積めば、その師のようになれる」と語られています。師というのは、イエス様のことでしょう。イエス様はやがて十字架にかかられるわけですが、それは神の子がこの地上で謙虚に歩まれたということであり、師のようになれるとは、お弟子さんたちに対して、「教会の指導者になっても謙虚に歩みなさい」と伝えているのだと思います。
続く41~42節は、私にとっては幼い頃からなじんできた言葉です。「兄弟に向かって」というのは、これもやがて誕生する教会に向けてのものであって、教会内での兄弟姉妹同士のありようが語られているのだと思います。ここでは比喩としては、丸太とおが屑が使われています。イエス様は父ヨセフの大工を手伝っていたでしょうから、これらは用いやすい例えであったのでしょう。
「丸太」と「おが屑」は、自分と兄弟姉妹の短所や過誤のことでしょう。自分には丸太のような大きな短所や過誤があるのに、教会の兄弟姉妹のおが屑のような小さな短所や過誤が目に映って気になって仕方がないことが語られているのだと思います。人間はどうしても、他人より自分が良く見えるのかもしれません。
イエス様は、「まず自分の目から丸太を取り除け」と語られています。そのためには、人々の罪のために十字架にかかられたイエス様のその十字架の前に出て、そこに立つ必要がありましょう。そうすれば、兄弟姉妹を赦すことができるようになるということだろうと思います。
その後の「そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる」は、兄弟姉妹の短所や過誤をなおも言い続けるのではなく、赦し合うことによって、おが屑のような人間間のわだかまりがなくなるということだと思います。教会の指導者になるためには、イエス様の十字架を見上げて他者を赦しつつ歩むことが大切だということでしょう。
心の倉から良いものを出しなさい
43~45節の言葉も、お弟子さんたちが教会の指導者になることを前提にして、比喩をもって語られていると思います。教会の指導者は、何よりもイエス・キリストに倣って歩むことが求められます。ここで語られている「良い木」「良い実」「良いもの」とは、道徳的な意味でなされるものではなく、イエス・キリストに倣った歩みから発出されるもののことです。
イエス・キリストに倣って歩むならば、「良いものを入れた心の倉から良いもの」を出すことができる、つまり、口から良い言葉を出すことができるようになるのです。このことは、教会を牧会するためには大切なことだと考えさせられています。講壇から慰めを語ることは、牧会者の日々の祈りです。
岩の上に土台を据える
48節前半の「それは、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている」を、佐藤研(みがく)氏は「彼は、〔地を〕掘り、深くし、岩の上に土台を据えて家を建てる人と同じだ」と翻訳しています(『新約聖書〈2〉ルカ文書―ルカによる福音書 使徒行伝』40ページ参照)。聖書原典に照らしてみるならば、この翻訳が正確であると思います。つまりここには、「掘る」「深くする」「据える」という3つの動詞があるのです。
そうなりますと、47節の「わたしのもとに来て、わたしの言葉を聞き、それを行う人が皆、どんな人に似ているかを示そう」の、「来る」「聞き」「行う」という3つの動詞に対応していることになります。大雑把な対称化ではありますが、以下のような並行になると思います。
わたしのもとに来て、 | わたしの言葉を聞き、 | それを行う人が皆、 | どんな人に似ているかを示そう。 |
彼は、[地を]掘り、 | 深くし、 | 岩の上に土台を据えて | 家を建てる人と同じだ。 |
このフレーズは、「わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか」という言葉で始まっていますから、「行うということが大切なのだ」ということが強調されています。そしてそれは、「岩の上に土台を据える」と例えられているのです。
イエス様の教えを実際に行うならば、岩の上に土台を据えた家のようになり、洪水になって川の水がその家に押し寄せても、揺り動かされることはないということでしょう。3回にわたって、イエス様の説教をお伝えしてきましたが、そこで要請されていることを実際に行う人となっていきたいと思います。(続く)
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