今回は6章27~36節を読みます。
27 「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。28 悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。29 あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。30 求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。31 人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。32 自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。33 また、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている。34 返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人さえ、同じものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである。35 しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。36 あなたがたの父が憐(あわ)れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」
今回の箇所もマタイ福音書の「山上の説教」、特に5章38~48節に対応しています。
愛敵の教え
27~30節は愛敵の教えです。「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい」と切り出したイエス様は、続けて4つのことを語られます。
これら4つのことは、愛敵の教えの具体的な内容であり、「報復の連鎖」の禁止に関係しています。例えば、AさんがBさんに何か悪を行ったとします。次に、BさんがAさんに仕返しをします。そうすると報復の応酬が止まらなくなり、AさんがさらにBさんに仕返しをするということが起こり、これが続くのが報復の連鎖です。聖書はこの報復の連鎖を禁じています。パウロも、自身の手紙である第1テサロニケ書4章15節で、「だれも、悪をもって悪に報いることのないように気をつけなさい」と勧告しています。
それでは、イエス様が語られた4つのことを見ていきましょう。1番目のことは、「あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい」です。これは、あなたを攻撃してくる人がいたなら、何とかしてそこで報復の応酬を止めるようにしなさいということです。自分の頬を打ってくる人がいたとします。その相手に対して、「何をするんだ」と言って頬を打ち返したならば、そこで報復の連鎖が始まります。
相手の頬を打ち返したならば、相手はさらに打ち返してくるでしょう。しかし、最初に頬を打たれたとき、自分のもう一方の頬を相手に向けたらどうでしょうか。相手はその頬も打ってくるでしょうか。おそらく相手はたじろぎ、手を出すことをためらうでしょう。それどころか、そこで自分の非に気付かされ、謝ってくるかもしれません。
このように、もう一方の頬を向けるようなことをもって、報復の連鎖が起こらないようにしなさい、というのが1番目のことです。これは、日常生活の個人同士の争いにとどまることではありません。国と国の関係においても同様です。他者(国)から攻撃されても、何とか知恵を絞って報復の連鎖が起こらないようにしなさいということです。
2番目の「上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない」、3番目の「求める者には、だれにでも与えなさい」、4番目の「あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない」は、いずれも物品を取っていった者に対して、報復のため取り返してはいけないということです。イエス様はむしろ、さらに与えてやりなさいと言われます。これも「物を取られる」という攻撃をされたときに、何とかして報復の応酬が繰り広げられないようにしなさいということでしょう。
黄金律
31節に「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」とあります。これは、マタイ福音書7章12節の「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」と同じで、「黄金律」といわれているものです。黄金律とは、宗教などの教えの中で、最も根本的な教えを指すものといわれています。
聖書の中には黄金律が2つあります。1つは旧約聖書の黄金律で、もう1つがこの新約聖書のイエス様の黄金律です。旧約聖書の黄金律は、「自分が嫌なことは、ほかのだれにもしてはならない」(外典・トビト記4:15)です。十戒の第6戒から第9戒の「殺してはならない。姦淫(かんいん)してはならない。盗んではならない。隣人に関して偽証してはならない」がまさにそれです。
十戒の第6戒から第9戒は、どれも他人からしてほしくないことです。殺されるのはもちろん嫌ですが、そこに至らしめられる、傷つけられることも私たちのしてほしいことではありません。他の3つの戒めも同様です。そのように、自分がしてほしくないことは他人にもしてはならないというのが、旧約聖書の黄金律です。
ちなみに、ヒンズー教の黄金律は「自分がされて痛みを覚えることを他人にしてはならない」です。孔子(儒教)の場合は「自分が望まないことは他人にしてはならない」で、ゾロアスター教は「自分に害であることは他人に対して行ってはならない」です。これらは旧約聖書の黄金律と共通するところがあります。
それに対して、イエス様が教えた黄金律は、「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」です。「自分が嫌なこと」という旧約聖書の消極的な物事の捉え方から、「人にしてもらいたいこと」という積極的な物事の捉え方に変わっているのです。これが、十戒を根幹とする古い律法から、新しい律法と新しい預言への転換なのです。
ただし、新約の時代に生きる私たちにとって、古い黄金律が不用になったというわけではありません。「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」「自分が嫌なことは、ほかのだれにもしてはならない」という新旧の黄金律は、車の両輪のようなものであり、両者が大切にされるべきことです。
憐れみ深い者となりなさい
35~36節に、「あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」とあります。
ここでは、人間相互の関係が神様との関係に結び付けられ、その上で、憐れみ深い神様に倣って「憐れみ深い者となりなさい」と語られています。憐れみ深い神様は、独り子イエス・キリストをこの地上にお送りになりました。そしてイエス様は、私たちのために十字架にかかってくださいました。
憐れみ深い神様に倣うとは、その神様が送ってくださったイエス様の十字架に倣うことです。「敵を愛しなさい」というイエス様の言葉は、十字架にかかって私たちの罪を赦(ゆる)してくださったイエス様に倣い、私たちもまた他者を赦すということが根幹だと思います。そのようにして、私たちも憐れみ深い者となることが可能なのです。
「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」。この黄金律の目指すところは、「赦してほしい、愛してほしい」と願う私たちが、他者にしてほしいそのことを、イエス様の十字架を間に置くことによって、まず自分自身が人に対して行うことにより、神様の子とされていくことではないでしょうか。(続く)
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