今回は7章1~10節を読みますが、イエス様は6章で伝えられている説教をされた後、第9回でお伝えした、シモンの実家があるカファルナウムに戻られました。カファルナウムには、それがガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスに属するものか、ローマの総督ポンティオ・ピラトに属するものであったかは正確には分からないのですが、小隊が駐屯していました。その小隊を指揮していたのが、今回のお話に登場する百人隊長です。
ルカ福音書が伝える百人隊長のお話の特徴
今回のお話では、カファルナウムにいたその百人隊長が、実際に姿を見せるわけではなく、知人や友達がイエス様のもとに行って取り次ぐ言葉の発信者として登場します。実はこの百人隊長のお話は、マタイ福音書8章5~13節にもあるのですが、そこではルカ福音書とは違って、百人隊長が実際に姿を見せており、直接イエス様のもとに行っています。
同じ出来事である2つのお話が、なぜこのように違っているのかについて、聖書学的な説明はいたしません。ただ私の推測ではありますが、このお話を知っている人は、マタイ福音書で描かれている内容をイメージする人が多いのではないでしょうか。マタイ福音書で書かれているお話の方が、百人隊長とイエス様の出会いが印象的ですし、脳裏に残りやすいのではないかと思います。
しかし、百人隊長が実際には姿を見せないルカ福音書のお話を、書かれているままに読み、そのまま受け取ることはとても大切なことであろうと、私は考えています。
「神様を畏れる人」であった百人隊長
前置きが長くなりましたが、では実際に本文を読んでみましょう。3つの部分に分けて見ていきたいと思います。
1 イエスは、民衆にこれらの言葉をすべて話し終えてから、カファルナウムに入られた。2 ところで、ある百人隊長に重んじられている部下が、病気で死にかかっていた。3 イエスのことを聞いた百人隊長は、ユダヤ人の長老たちを使いにやって、部下を助けに来てくださるように頼んだ。4 長老たちはイエスのもとに来て、熱心に願った。「あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です。5 わたしたちユダヤ人を愛して、自ら会堂を建ててくれたのです。」
この百人隊長が、誰の配下にあったのかは正確には分かりませんが、彼は非ユダヤ人、つまり異邦人でした。百人隊長には、病気で死にかかっている部下がいました。この「死にかかっている部下」というのも、ルカ福音書が伝えている特徴です。
百人隊長はイエス様のうわさを聞いていて、この部下の病気をイエス様に治していただきたいと考えました。そこで、イエス様がカファルナウムに戻ってきたことを聞いた彼は、自分の身近に住む知人である、ユダヤ人の長老たちをイエス様のもとに遣わしたのです。
イエス様のもとに着いた長老たちは、百人隊長の部下を助けてくれるよう懇願します。けれどもルカ福音書は、そのことよりも百人隊長がユダヤ人コミュニティーの中でいかに尊敬されていたかを伝えたかったようで、それについては長老たちが発した言葉を、「わたしたちユダヤ人を愛して、自ら会堂を建ててくれたのです」と、そのままに記しています。
このところが大切なのだと思います。百人隊長は自分の部下に対しても、死にそうな状態であったその病気から何とかして治してあげたいと願っていました。「祈っていた」と言ってよいでしょう。そして長老たちの会堂に関する発言からすると、彼は使徒言行録10章で伝えられているカイサリアの百人隊長コルネリウスと同じ、「神様を畏れる人」であったと思われます。
つまり、異邦人でありながらも、日頃から神様を礼拝する人であったということです。そして、「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」という聖書の言葉を実践して、ユダヤ人や部下などに愛をもって接していた人であったということです。前回お伝えした岩の上に家を建てた人のように、神様の教えを実行している人であったということです。
友達に託した言葉
6 そこで、イエスは一緒に出かけられた。ところが、その家からほど遠からぬ所まで来たとき、百人隊長は友達を使いにやって言わせた。「主よ、御足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。7 ですから、わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました。ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。8 わたしも権威の下に置かれている者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」9 イエスはこれを聞いて感心し、従っていた群衆の方を振り向いて言われた。「言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。」
長老たちの要請を受諾したイエス様は、彼らと共に百人隊長の家に向かいます。そうすると、それを耳にした百人隊長が、今度は自分の友達を、彼の家に向う途上にあるイエス様のところに遣わしたのです。そして、その友達を通して、自分の思いをイエス様に伝えたのです。
それは、「私は自分の家にイエス様をお迎えできるような者ではない」ということと、「私の方からイエス様のもとにお伺いすることもふさわしくない」ということでした。後者はルカ福音書のみに特徴的で、ルカ福音書ではより一層、百人隊長の謙虚さが強調されています(嶺重淑〔みねしげ・きよし〕著『NTJ新約聖書注解 ルカ福音書1章~9章50節』304ページ参照)。このことも、百人隊長が神様を畏れる人であり、また神様の教えを実行する人であったことの証左であろうと思います。
百人隊長が友達に託した言葉の後半(7節b~8節)は、部下に対する癒やしの言葉の要請と、彼自身が考えるその根拠でした。それは「ひと言おっしゃってください」というものと、「私でさえ自分の部下に命じれば、命じた言葉通りにやるのだから、ましてやイエス様が言葉を発すれば、当然その通りになる」というものでした。イエス様の言葉に対する信頼感が表れていると思います。
百人隊長のとりなしの祈り
以上のように、ルカ福音書が伝える百人隊長のお話は、彼自身がイエス様と直接会っていないことが特徴になっています。これを、「彼の依頼は他の人たちを通じてイエスにもたらされた祈りのように見える」とする注解者もいます(リチャード・アラン・カルペパー著『NIB新約聖書注解4 ルカによる福音書』194ページ参照)。私もその解釈に同意します。これは、百人隊長の祈りが表されているお話なのです。
私たちの祈りは、目に見えない神様に、イエス・キリストを通してささげるものです。百人隊長がイエス様に会わないで、長老たちや友達を通して依頼したことは、私たちの祈りのひな型なのです。そしてその祈りは、病気で死にかかっている部下の代わりになされたものでした。このように、他者の代わりに祈ることを「とりなしの祈り」と呼びます。百人隊長の、自分の周囲の人たちへの愛、神様への畏れ、謙虚さ、イエス様の言葉に対する信頼、とりなしの祈り、そういったことが一体となって伝えられているお話なのです。
癒やされた部下
10 使いに行った人たちが家に帰ってみると、その部下は元気になっていた。
死にかかっていた百人隊長の部下が、イエス様に直接癒やしの行為をしていただかなかったにもかかわらず、癒やされたということでこのお話は終わっています。部下は病気が癒やされ、再出発することになったのです。私はルカ福音書を「やり直せます」という切り口を中心にして読んでいますが、ここに、そのテーマがよりはっきり表れていると思います。
しかしそれは、百人隊長のとりなしの祈りがあってのことだったのです。本コラムでは取り上げることをしませんでしたが、6章17~26節にある中風の人の癒やしのお話も、彼の友人4人のとりなしの祈りがあったと思われる出来事でした。
私たちもこれまでの人生において、神様の導きによってやり直せたことが、少なからずあるかもしれません。しかしその背後にはまた、私たちのために祈ってくださっていた人々がおられたことも、心の内に覚えたいと思います。(続く)
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