今回は、10章19~30節を読みます。
ユダヤ人たちの間の対立
19 この言葉をめぐって、ユダヤ人たちの間にまた対立が生じた。20 多くのユダヤ人は言った。「あれは悪霊に取りつかれて、気が変になっている。なぜ、あなたがたはその言うことに耳を貸すのか。」 21 ほかの者たちは言った。「悪霊に取りつかれた者は、こういうことは言えない。悪霊に盲人の目を開けることができようか。」
盲人の目を開けられたイエス様は、その後に羊と羊飼いを中心にした例え話を語られました。その話を聞いていたユダヤ人たちの間に、対立が生じることになります。その中の多数の人たちは、イエス様について「あれは悪霊に取りつかれて、気が変になっている」と悪評を立てていました。しかし、イエス様のことを肯定的に見ている人たちもいたのです。ただ、その人たちがイエス様の話を正確に理解していたかということになりますと、そうでもなかったことが、この後の記述から明らかになります。
神殿奉献記念祭
22 その頃、エルサレムで神殿奉献記念祭が行われた。冬であった。
新約聖書において、この神殿奉献記念祭という行事に触れているのはここだけです。これは、イスラエルで現在も行われている行事です。神殿奉献記念祭が行われるようになったいきさつについて、少しお伝えしておきます。
紀元前167年に、エルサレムがシリアの暴君アンティオコス4世に略奪され、神殿にゼウスの像が置かれたことがありました。そして、アンティオコス4世は、ユダヤ人にそれを礼拝するよう強要し、彼らが大切にしていた律法の安息日順守を破棄するように命じたのです。
しかし一部の人たちは、この暴君の命令を拒否し、荒野の隠れ家に身を寄せました。王の軍は、ある安息日に武装してその隠れ家に出かけ、彼らに王の命令に従うよう求めました。しかし彼らは、「我々は出て行かない。安息日を汚せという王の言葉を実行しない」(旧約聖書続編・第1マカバイ記2章34節)と言って、これを拒否しました。
すると、王の軍の兵士たちは、その日が安息日であることを承知の上で、彼らに対して直ちに戦いを開始したのです。敬虔なユダヤ人たちは、安息日ですから戦うことができません。彼らは、「我々は全員潔く死のう」(同37節)と言って応戦しませんでした。そして千人もの犠牲者が出たのです。
しかしこの時、祭司マタティアとその友人たちは、「誰であれ、安息日に我々に対して戦いを挑んで来る者があれば、我々はこれと戦おう。我々は皆、隠れ場で殺された兄弟たちのようには決して死ぬまい」(同41節)と決議したのです。そして軍隊を結成して、アンティオコス4世の軍に抗戦しました。
マタティアの死後、息子の一人マカバイが、父に代わって立ち上がり、この戦いを続けました。そして数々の勝利を収め、略奪されていた神殿を奪還して、紀元前164年に主なる神への奉献の式をしたのです。このことを記念して毎年行われるようになったのが、神殿奉献記念祭です。
ちなみに、ヘンデルのオラトリ「ユダス・マカベウス」は、このマカバイの勝利をたたえているものです。その中の第3幕「見よ、勇者は帰る」は、さまざまな表彰式においてよく流されますが、いかにも表彰にふさわしいメロディーだと思わされます。
政治的な意味でのメシア待望
23 イエスは、神殿の境内でソロモンの回廊を歩いておられた。24 すると、ユダヤ人たちがイエスを取り囲んで言った。「いつまで私たちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい。」
この神殿奉献記念祭の期間中に、イエス様は神殿に来ておられました。そこでのイエス様とユダヤ人たちの対論が伝えられるのですが、これには意味があります。マカバイは、ユダヤ人の歴史においては英雄でした。ユダヤが他国に支配されていたイエス様の時代、人々はマカバイのような独立を勝ち取る英雄を待ち望んでいたのです。それはメシア待望には違いありませんが、彼らは政治的な意味でのメシアを待ち望んでいたのです。21節で伝えられている、イエス様に対して肯定的であった人たちとは、そのような人たちであったのではないでしょうか。
そうしたユダヤ人たちは、イエス様に対して、「もしメシアなら、はっきりそう言いなさい」と詰め寄りました。それは自分たちの思惑に基づくものであって、政治的な意味でのメシアであることをはっきりさせなさいということであったのでしょう。イエス様は羊と羊飼いの例え話で、「神の子」という意味でのメシアを語っていたのですが、このユダヤ人たちには理解できないことだったのです。
「私と父とは一つである」
25 イエスはお答えになった。「私は言ったが、あなたがたは信じない。私が父の名によって行う業が、私について証しをしている。26 しかし、あなたがたは信じない。私の羊ではないからである。27 私の羊は私の声を聞き分ける。私は彼らを知っており、彼らは私に従う。
28 私は彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、また、彼らを私の手から奪う者はいない。29 私に彼らを与えてくださった父は、すべてのものより偉大であり、誰も彼らを父の手から奪うことはできない。30 私と父とは一つである。」
ユダヤ人たちに対するイエス様の答えは、それまでに語ってこられたことを復唱しているように思えます。これは、この福音書を読む読者にとっては、「ここがポイント」ということになると思います。イエス様は、マカバイのような政治的メシアとしてこの世に来られたのではなかったのです。イエス様は、神様の愛を示すため、人々の罪のために十字架にかけられる目的でこの世に来られたメシアだったのです。
そして、イエス様がご自身の命(プシュケー)を捨てることによって、人々に命(ゾーエー)が与えられることになりました(プシュケーとゾーエーについては前回参照)。それは、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(3章16節)とある、神様の目的を果たされるためでした。
そして、イエス様はその父なる神様と同一であられたのです。ですからこの後、十字架への道を進まれることになるのです。(続く)
◇