今回は、9章24~34節を読みます。前回は、8~23節について、ヨハネ福音書が書かれた紀元80年以後に回心したある信徒の話であるという視点で執筆しました。今回はその続きですので、舞台は前回と同じ紀元80年以後のある町とし、ユダヤ人たちは「ゲルーシア」と呼ばれる長老たちの集まりとします。
エルサレムでイエス様に見えなかった目を開けていただいた人の話を、福音書記者ヨハネは、それから半世紀後の回心したある信徒の話につなげているのです。現代の聖書学においては、このような説が有力になっており、私もその説が妥当であると考えていますので、その立場で執筆します。
再び呼び出された信徒
24 そこで、ユダヤ人たちは、目の見えなかった人をもう一度呼び出して言った。「神の前で正直に答えなさい。私たちは、あの者が罪人であることを知っているのだ。」 25 彼は答えた。「あの方が罪人かどうか、私には分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかった私が、今は見えるということです。」
今回も、目が見えなかったとされている人については、「信徒」と表記したいと思います。彼は、ヨハネの時代の会堂を中心としたユダヤ人コミュニティーに属する人でしたが、恐らくヨハネ教団の教会に行くようになり、そこでイエス・キリストに目が開かれたのでしょう。ヨハネはその信徒を、かつてエルサレムでイエス様によってシロアムの池に目を洗いに行かされ、見えなかった目を開いていただいた人(1~7節)に被せているというのが、私の見立てです。
ヨハネの時代は、ユダヤ人キリスト教徒は会堂を中心とするユダヤ人コミュニティーから追放されることが決められていました。それは22節の「ユダヤ人たちはすでに、イエスをメシアであると告白する者がいれば、会堂から追放すると決めていたのである」からも分かりますが、紀元80年代当時の祈願書からも明らかになっています。「18祈願」といわれるものの12番目の祈願は以下のようになっています(J・L・マーティン著『ヨハネ福音書の歴史と神学』70~71ページ)。
- 背教者たちには、希望がないように。
- そして尊大な政府は
- われわれの時代にすみやかに根こそぎにされるように。
- ナザレ人たち(キリスト教徒たち)とミ―ニーム(異端者たち)は瞬時に滅ぼされるように。
- そして、彼らの生命の書から抹殺されるように。そして、正しい者たちと共に記されることがないように。
- 主よ、誇るものたちを卑しめたもう汝(なんじ)は、ほむべきかな。
そして、この祈願は以下のような形で用いられたことが、当時のラビたちの文献から明らかになっているそうです(同書72~75ページ)。
- 会堂に属するある者が彼の正統性に疑いを生じさせることを行う。
- 会堂司は監督に命じてこの男を会衆の代表に任命させる。すなわち、18の祈願を唱えるときに指導をさせるのである。
- その男は、その指名を避ける方法がなければ、「箱」(トーラー・ニッチ、筆者注・律法書を置く凹部)の前に行き、18の祈願のすべてを、各々の祈願の後に間をおいて会衆がアーメンを言うのを待ちながら、大声で唱えなければならない。すべて人々は彼が第12の祈願を唱えるのを注意深く聞くのである。
- もし彼が異端者たちに反対する第12の祈願を唱えるのをためらうならば、彼は彼の祈りを止めさせられる。多分、そののち彼は、会堂の交わりから「追い出される。」
ヨハネの時代の会堂を中心とするユダヤ人コミュニティーが、キリスト教徒を追い出そうとしていたことが、聖書と当時の文献から明らかになっています。目が開けられた盲人と書き表されているこの信徒は、そういった状況下の時代に、キリスト教信仰を持った人ということです。イエス・キリストによって目を開かされたことが明らかになれば、その人はユダヤ人コミュニティーから追放されることになっていたのです。
ゲルーシアと呼ばれる長老たちは、信徒の両親が「誰が目を開けてくれたのかも、私どもは分かりません。本人にお聞きください」(21節)と答えたので、再び信徒を呼び出しました。そして、「神の前で正直に答えなさい」と問い詰めます。それは、「お前はイエス・キリストによって目を開かされ、キリスト教徒になったのだろう」と問い詰めているのだと思います。
「私たちは、あの者が罪人であることを知っているのだ」。ゲルーシアのこの言葉は、イエス様が自分は神から遣わされた者だと言っていたことを受けたものだと思います。その時もイエス様は罪人とされましたが(5章18節)、ヨハネの時代にも、同じように言われていたということでしょう。
信徒は、「あの方が罪人かどうか、私には分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかった私が、今は見えるということです」と答えました。イエス・キリストによって自分自身の罪が見えるようになり、「罪人とは私のことなのだ」ということが分かるようになったということでしょうか。ゲルーシアにとってそれは驚きのことでした。「イエスは罪人である」と教えていたのに、イエス様は罪人ではなく、罪を赦(ゆる)してくださった方であり、それによって「私は罪人です」と言う者が現れたのです。
「お前はイエスの弟子だ」と言うゲルーシア
26 すると、彼らは言った。「あの者はお前にどんなことをしたのか。お前の目をどうやって開けたのか。」 27 彼は答えた。「もうお話ししたのに、聞いてくださいませんでした。なぜまた、聞こうとなさるのですか。あなたがたもあの方の弟子になりたいのですか。」 28 そこで、彼らは罵(ののし)って言った。「お前はあの者の弟子だが、我々はモーセの弟子だ。29 我々は、神がモーセに語られたことは知っているが、あの者がどこから来たのかは知らない。」
26節の、信徒に対する「お前の目をどうやって開けたのか」というゲルーシアの問いは、「お前はどうしてイエスをキリストと告白する境地になったのか」ということを示していると思います。信徒は、「もうお話ししたのに」と答えます。それは、「あの方が私の目にこねた土を塗りました。そして、私が洗うと、見えるようになったのです」(15節)ということでした。
土を塗るという行為は、創世記の「神である主は、土の塵(ちり)で人を形づくり」(2章7節)を連想させます。かつて人(アダム)が創造されたように、新しい人が創造されたことを意味しているのだと思います。信徒は、イエス・キリストによって新しく創造されたのです。そしてその塗られた土が洗われたように、罪が洗われたのでしょう。
ゲルーシアが「目をどうやって開けたのか」と2度も聞いてきたので、信徒は「あなたがたもあの方の弟子になりたいのですか」と問い返します。それに対してゲルーシアは、「お前はあの者の弟子だが、我々はモーセの弟子だ」と答えます。この「お前はあの者の弟子だ」という言葉にも、9章8~34節がヨハネの時代のものであることを感じられると思います。エルサレムでイエス様に目を開けてもらった盲人というよりも、既に人々の共同体となっていた教会に集って、イエス・キリストを礼拝していた信徒の姿が浮かび上がるのです。
追い出された信徒
30 彼は答えて言った。「あの方がどこから来られたか、ご存じないとは、実に不思議です。あの方は、私の目を開けてくださったのに。31 神は罪人の言うことはお聞きにならないと、私たちは承知しています。しかし、神を敬い、その御心を行う人の言うことは、お聞きになります。32 生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。33 あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならないはずです。」 34 彼らは、「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」と言い返し、彼を外に追い出した。
信徒は、イエス様が生前言われていた「私は神に遣わされた者である」ということを、紀元80年以後のこの時代にも告白しています。ゲルーシアから見れば、この信徒は18祈願の12番目の祈願の言葉「ナザレ人(キリスト教徒)」に他なりません。そのため彼らは信徒を、町の会堂を中心としたユダヤ人コミュニティーから追放したのです。
2回にわたって、エルサレムにおいてイエス様に目を開けられた盲人の話が、ヨハネの時代の回心した信徒の話に移行しているという見立てで執筆しました。さらにこの話は、現代の私たち一人一人につながっているのかもしれません。私たちもまた、イエス様に目を開けていただき、それまで見えなかった自分自身の罪を見えるようにしていただいた者たちなのです。(続く)
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