モーセに顕現した「私はある」という名前の神様
今回は8章21~29節を読みますが、その前に、旧約聖書の出エジプト記3章1~15節に記されている、イスラエルの民がエジプトにおいてとらわれていたときの話である「モーセの召命」についてお伝えします。
「神の山ホレブ」に行ったモーセは、柴が燃えているのを見ます。しかし、柴は燃え尽きることはありませんでした。その時に燃える柴の中から、「私はあなたの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」という声が聞こえてきたのです。
神様は、エジプトで苦しんでいるイスラエルの民を見て、彼らを救い出そうとしていると言われました。その声に恐れていたモーセは、「私はイスラエルの人々のところに行って、『あなたがたの先祖の神が私をあなたがたに遣わされました』と言うつもりです。すると彼らは、『その名は何か』と私に問うでしょう。私は何と彼らに言いましょう」と聞き返しました。
そうすると神様は、「私はいる(新共同訳では『ある』)、という者である」と言われたのです。この「『私はある』という者である」が、聖書の神様による固有名を用いた自己紹介です。つまり、神様の固有名は「私はある」なのです。それは、神様は人やその他の存在によって造られたものではなく、この世の初めからおられる存在だということをも意味しています。
「私はある」と言われるイエス様
それでは今回の箇所を読んでいきましょう。
21 イエスはまた言われた。「私は去って行く。あなたがたは私を捜すだろう。だが、あなたがたは自分の罪のうちに死ぬことになる。私の行く所に、あなたがたは来ることができない。」 22 ユダヤ人たちが、「『私の行く所に、あなたがたは来ることができない』と言っているが、まさか自殺でもするつもりなのだろうか」と話していると、23 イエスは言われた。「あなたがたは下から出た者だが、私は上から来た者である。あなたがたはこの世の者であるが、私はこの世の者ではない。24 だから、あなたがたは自分の罪のうちに死ぬことになると、私は言ったのである。『私はある』ということを信じないならば、あなたがたは自分の罪のうちに死ぬことになる。」
前回、イエス様がご自身について、「私は世の光である」と言われたことをお伝えしました。実はこれは、ギリシャ語では「エゴー・エイミ・ト・フォース・トゥー・コスムー」という言い回しで、厳密に直訳するならば、「私はある、光で、世の」となります。
このうちの「エゴー・エイミ」は、イエス様がご自身を神であると啓示する際に使う言葉であることは、繰り返しお伝えしてきました。ただ、今までのものは「エゴー・エイミ〜(私は〜である)」のように客語を伴っていました。しかし、今回の箇所は客語(〜の部分)を伴っていません。
実は、客語を伴わない「エゴー・エイミ」は今までにも2度出てきました。4章26節の「あなたと話しているこの私が、それである」と、6章20節の「私だ。恐れることはない」です。両箇所とも、客語なしで「私はある」と言っているのですが、日本語にしてしまうと、そのニュアンスは伝わりづらいと思います。
今回の箇所では、24節と28節に、「私はある」とそのまま翻訳できる「エゴー・エイミ」があります。これは、出エジプトの際に神様がモーセに対して自己紹介したときに用いた固有名と同じです。このことは、今回の箇所が、自身は神であるとイエス様が自己啓示されていることを分かりやすくしてくれていると思います。そして23節によれば、イエス様は上から、つまり天から来られた方であり、この世の者ではなく、この世界を造られたお方なのです。
このイエス様を、モーセに「『私はある』という者である」と自己啓示された神様と一体の方であると信じるとき、永遠の命を得ることができると伝えているのがヨハネ福音書です。しかし、それを受け入れないならば、罪のうちから光のうちへと進んで生きることはできないのです。
無理解なユダヤ人たち
25 彼らが、「あなたは一体、何者なのか」と言うと、イエスは言われた。「それは初めから話しているではないか。26 あなたがたについては、言うべきこと、裁くべきことがたくさんある。しかし、私をお遣わしになった方は真実であり、私はその方から聞いたことを、世に向かって話している。」 27 彼らは、イエスが御父について話しておられることを悟らなかった。
イエス様を囲むユダヤ人たちは、モーセに対して「『私はある』という者である」と自己啓示された神様を、イエス様のうちに見いだすことができませんでした。イエス様が父なる神様と同質なお方であるということが理解できなかったので、「あなたは一体、何者なのか」と聞いてきたのです。
イエス様は、当初から自分が父なる神様から遣わされた者であることを語っていたし、父と一体であることも語っていました。そして、父から聞いたことをこの世において語っていたのです。しかし、ユダヤ人たちはそれらのことを理解しようともしていなかったのです。
「私はある」が分かるようになるとき
28 そこで、イエスは言われた。「あなたがたは、人の子を上げたときに初めて、『私はある』ということ、また私が、自分勝手には何もせず、父に教えられたとおりに、話していることが分かるだろう。29 私をお遣わしになった方は、私と共にいてくださる。私を独りにしてはおかれない。私は、いつもこの方の御心に適うことを行うからである。」
イエス様は、ユダヤ人たちがご自身の話を理解しようとしていなかったので、ご自身の高挙の時を予示します。聖書テキストでは「人の子を上げたとき」となっていますが、これを「高挙」と呼びます。そこには2つの意味があります。第一にはイエス様が十字架につけられることであり、第二にはイエス様が復活して神様の右に上げられることです。
高挙の時には、「あなたがたは私が『私はある』という者であることを分かるようになるだろう」と言うのです。事実、使徒言行録2章22~42節を読みますと、イエス様の昇天後、ペンテコステの日にペトロが、イエス様が十字架で死なれ復活されたこと、神様の右に上げられたこと、神様から聖霊を受けて注いでくださったことを説教すると、人々が悔い改め、3千人ほどが洗礼を受けて教会に加わったとされています。
イエス様が神様と同質のお方であることが、多くの人々によって理解される時が来ることになるのです。(続く)
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