今回は、7章53節~8章11節を読みます。
この箇所を巡る捉え方について
最初に、この箇所がキリスト教の歴史においてどのように捉えられてきたのかを、簡潔に記しておきたいと思います。この箇所は、文体や神学的な関連から、本来はヨハネ福音書の中にあったものではないということがいわれてきました。
そのような主張をしている人の中で一番極端と思えるのは、新約学者のルドルフ・ブルトマンです。彼の注解書『ヨハネの福音書』においては、他の箇所は全て詳細に叙述されているのに対して、この箇所は全く無視されています(目次の47ページ)。その理由を記しているところすら見いだせません。そこまで極端ではないにせよ、多くの注解者が「この箇所は本来、ヨハネ福音書にあったものではない」としています。
私自身も、ここはヨハネ福音書にはあまり見られない「罪の赦(ゆる)し」が主題になっているため、放蕩息子の話を伝えるなどしてこの主題に積極的なルカ福音書の神学との共通要素が強いと思います。そのため、「もともとはルカ福音書の記事であった」などとする見解には関心を持たされます。しかしそれであっても、この箇所はこの後の8章以下との関連などから、ヨハネ福音書のこの場面で伝えられていることを良しとしたいと考えています。
連れてこられた姦淫の女性
7:53 人々はおのおの自分の家へ帰って行った。8:1 イエスはオリーブ山へ行かれた。2 朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御もとに寄って来たので、座って教え始められた。3 そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦淫(かんいん)の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、4 イエスに言った。「先生、この女は姦淫をしているときに捕まりました。5 こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」 6a イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。
7章53節~8章2節によりますと、イエス様がエルサレム郊外にあるオリーブ山で一夜を過ごされたことが分かります。ルカ福音書22章39~46節には、イエス様がオリーブ山(マタイ、マルコ各福音書の並行記事はゲツセマネ)で夜を徹して祈られたことが伝えられていますが、その箇所をほうふつとさせられます。
次の朝早く、イエス様はいつものように神殿に行かれます。これが、前回までにお伝えしていた仮庵(かりいお)祭の期間を意味していることなのか、終了した後のことなのかは分かりません。いずれにしても、そこにいた人々を相手にして、座って教えを説かれ始めたのです。「座って」ということは、この箇所においては案外重要なことなのかもしれません。身をかがめて、相手と同じ目線にあることを意味しています。「上から目線」ではない、ということだと思います。
そこに、律法学者やファリサイ派の人たちによって、一人の女性が連れてこられました。姦淫の現場で捕らえられた女性でした。旧約聖書の申命記22章22節には、「ある人が夫のいる女と寝ているのを見つけられたならば、その女と寝た男もその女も、二人とも死ななければならない」とあり、このような姦淫を犯した人は死刑にされることになっていました。
ただ、律法学者やファリサイ派の人たちにしてみれば、イエス様を訴える口実を設けるためにこの女性を連れてきたのでした。イエス様が「石を投げよ」と言えば、死刑はローマ法によってのみ決定されるとするローマ帝国の法律を無視することになります。他方、「石を投げてはいけない」と言えば、モーセ律法を無視することになります。
「私もあなたを罪に定めない」
8:6b イエスはかがみ込み、指で地面に何か書いておられた。7 しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたがたの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」 8 そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。9 これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と立ち去ってゆき、イエス独りと、真ん中にいた女が残った。10 イエスは、身を起こして言われた。「女よ、あの人たちはどこにいるのか。誰もあなたを罪に定めなかったのか。」 11 女が、「主よ、誰も」と言うと、イエスは言われた。「私もあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはいけない。」
民衆に向かって座って話しておられたイエス様は、立ち上がらずにかがみこんだままで地面に何かを書いておられました。これは、前述の「相手と同じ目線にある」ことを、この女性にもなさっていたことを意味しています。捕らえられて恐れを抱いている女性に対して、「私はあなたに寄り添っている」という姿勢を示されていたのではないかと思います。
イエス様のこの姿勢は、律法学者やファリサイ派の人たちを刺激したようです。彼らはさらに執拗にイエス様を問いただしました。それでイエス様は身を起こし、「あなたがたの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」と言われたのです。そしてイエス様はまた、当初のように身をかがめて、地面に何かを書き続けておられたのです。
イエス様の言葉を聞いた律法学者やファリサイ派の人たちは、年長者から一人また一人とその場を去っていきました。自分自身に問うてみて、罪を犯したことがないと言える人間は、イエス様以外にはいないのです。彼らは女性に石を投げることができませんでした。
この点が、この姦淫の女性の話がヨハネ福音書のこの箇所にふさわしいと思う理由です。この後、ユダヤ人たちはイエス様に石を投げつけようとします(8章59節、10章31節)。しかし本来、彼らはそれをできる立場にはなかったのです。それを、この姦淫の女性の話は予示しているのだと思います。
そのような経緯で、結局イエス様と姦淫の女性のみがその場所に残されることになりました。イエス様が「誰もあなたを罪に定めなかったのか」と聞くと、女性は短く「主よ、誰も」と答えました。今回の話の中で女性の言葉はこれだけで、しかもこのように短いのですが、とても重みのある言葉だと思います。
イエス様は、「私もあなたを罪に定めない」と女性に言います。この言葉には、ルカ福音書7章48節の「罪深い女性」と題される話の中の「あなたの罪は赦された」という言葉を連想させられます。こういったところに、この姦淫の女性の話が「もともとはルカ福音書の記事であった」とされる理由があるのだと思います。
ヨハネ福音書においては稀有(けう)ではありますが、イエス様の赦しということが強調された、ほっとする内容の話です(続く)
◇