今回は、7章37~44節を読みます。
生ける水とは
37 祭りの終わりの大事な日に、イエスは立ったまま、大声で言われた。「渇いている人は誰でも、私のもとに来て飲みなさい。38 私を信じる者は、聖書が語ったとおり、その人の内から生ける水が川となって流れ出るようになる。」 39 イエスは、ご自分を信じた人々が受けようとしている霊について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、霊がまだ与えられていなかったからである。
仮庵(かりいお)祭は、秋の安息日から安息日までの8日間行われました。イエス様はその仮庵祭に参加され、その最終日を迎えました。もっともこの日は7日目であるという説もあります(伊吹雄著『ヨハネ福音書注解Ⅱ』182ページ)。
仮庵祭の最中は、毎朝祭司たちがシロアムの池(9章7節)に行き、イザヤ章12章3節の「あなたがたは喜びのうちに、救いの泉から水を汲(く)む(ウシャブテム・マイム・ベサソン・ミマァイェネ・ハイェシュア)」を歌いながら器に水を汲み、神殿の祭壇にその水を運び注ぎます。
ちなみに、フォークダンスの曲として知られる「マイム・マイム」(マイムはヘブライ語で「水」を意味します)は、このイザヤ書12章3節を歌ったものです。特にリフレインまでの前半は、この聖句がそのまま歌詞になっています。もっとも、現在の仮庵祭で歌われているのがこの曲であるかどうかは、私には分かりません。
いずれにしましても、仮庵祭が水を汲み注ぐことを大切にしていた祭りであることは確かです。その仮庵祭でイエス様は水について話され、「私を信じる者は、聖書が語ったとおり、その人の内から生ける水が川となって流れ出るようになる」と述べておられるのです。
旧約聖書のエゼキエル書には、次のような言葉があります。
47:1 彼は私を神殿の入り口に連れ戻した。すると、水が神殿の敷居の下から湧き出て、東の方に流れていた。神殿の正面が東に向いていたからである。水は祭壇の南、神殿の南側の下から流れ下っていた。2 彼は北の門を通って私を連れ出し、外の道を回って東に向いた外門に連れて行った。すると、水は南側から流れ出ていた。3 その人は、手に測り縄を持って東に出て行き、一千アンマ(約500メートル)を測り、私に水の中を渡らせた。すると水はくるぶしまであった。4 彼はさらに一千アンマを測って、私に水の中を渡らせると、水は膝に達した。さらに彼は一千アンマを測り、私を渡らせると、水は腰に達した。5 彼がさらに一千アンマを測ると、もはや渡ることのできない川になり、水は増えて、泳がなければ渡ることのできない川となった。
これは、捕囚の地バビロンにいたエゼキエルが、エルサレムに連れていかれ、幻の中で神殿を見たシーンで、神殿の敷居の下から水が湧きあふれ、川になっていったというものです。イエス様が言われた「聖書が語ったとおり、その人の内から生ける水が川となって流れ出る」というのは、このシーンを指しているのではないかと思います。
イエス様を信じて、与えられた永遠の命の水を飲む者は、その人からも水が湧き出るのです。この水とは、イエス様が復活されたときに与えられた聖霊を指しています。弟子たちに息を吹きかけて「聖霊を受けなさい」と言われたのがそれです(20章22節)。
使徒言行録においては、聖霊の降臨がペンテコステの日にエルサレムで起こり、教会が誕生したと伝えられています。ヨハネ福音書の記述との違いを細部において問うことはしませんが、いずれにしましても、イエス様の復活後に聖霊が降り、世界の歴史を導き、今も世界中において働いておられることは同じです。それが、イエス様が与えてくださる生ける水であり、私たちも愛することによって、他者にその水を与えることができるということです。
「永遠の命」とは、私たちが聖霊によって生かされ、他者をも生かすその力であろうかと思います。命の水を飲むとは、その力を頂くことでしょう。仮庵祭で語られたとき、イエス様はまだ栄光化されておらず、それ故に仮庵祭ではひそかな行動(7章10節)をしていたと伝えられており、イエス様に霊は与えられていませんでした。しかし、ヨハネ福音書は栄光化される前のイエス様を伝えると同時に、栄光化されたキリストをも織り交ぜるようにして伝えていますので、その両者を読み取っていくことも大切なことだと思います。
この人はメシアなのか
40 この言葉を聞いて、群衆の中には、「この人は、本当にあの預言者だ」と言う者や、41 「この人はメシアだ」と言う者がいたが、このように言う者もいた。「メシアがガリラヤなどから出るだろうか。42 メシアはダビデの子孫で、ダビデのいた村ベツレヘムから出ると、聖書に書いてあるではないか。43 こうして、イエスのことで群衆の間に対立が生じた。44 その中にはイエスを捕らえようと思う者もいたが、手をかける者はなかった。
イエス様はひそかな行動をなさっていたのですが、この仮庵祭においても人々の間で知られるようになってしまいました。それで、モーセに預言されている預言者であるとか(申命記18章15節「あなたの神、主は、あなたの中から、あなたの同胞の中から、私のような預言者をあなたのために立てられる」)、メシアであると言う者が出てきたのです。
ここでいわれているメシアとは、ヨハネ福音書が伝えようとしている本来のメシアではなく、ダビデのような歴史上の英雄のことであると思います。ですから、「メシアはダビデの子孫で、ダビデのいた村ベツレヘムから出ると、聖書に書いてあるではないか」というような発想が生じたのだと思います。
しかし、イエス様を捕えようとする者たちも出てきました。そして、後に彼らに捕らえられて十字架にかけられるイエス様が、真のメシアであることがやがては理解されるようになるのです。ヨハネ福音書はそのような光のもとにおいて執筆されているのです。
5回にわたってお伝えした「仮庵祭でのイエス様」はひとまず終了になります。この後の8章の記事の一部も仮庵祭でのものと取れないことはないのですが、本コラムにおいては7章52節までを仮庵祭を伝える記事と理解します。45~52節については前回お伝えしていますので、ひとまず終了にします。次回は、「姦淫(かんいん)の女性とイエス様」の話をお伝えします。(続く)
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