今回は、7章25~30節を読みます。
エルサレムの傍観者たち
25 さて、エルサレムの人々の中には次のように言う者がいた。「これは、人々が殺そうと狙っている者ではないか。26 あんなに公然と話しているのに、何も言われない。議員たちは、この人がメシアだということを、まさか本当に認めたのではなかろうか。27 しかし、私たちは、この人がどこの出身かを知っている。だが、メシアが来られるとき、それが、どこからか知っている者は一人もいない。」
7章1節によりますと、イエス様を「ユダヤ人が殺そうと狙っていた」のです。しかし、前回お伝えしたように、エルサレムの人々の中にはそのことを知らない人たちもいました(19節)。けれども、エルサレムの人々の中には、知っていて傍観している人たちもいたようです。
イエス様は仮庵(かりいお)祭が盛況な時に、人々が大勢集まっているエルサレム神殿の境内で公然と教え始めました。傍観していた人たちもこれには驚いたようで、ユダヤの支配者層(聖書協会共同訳では「議員」)が、イエス様がメシアであることを認めたのではないかと思うようになったのです。もしも支配者層が認めたのならば、イエス様が公然と語っても、殺そうとしていた人たちに付け狙われることはないからです。
ひょっとするとこの傍観者たちは、ガリラヤの出身者たちで、そのためにイエス様がナザレの出身者で、ヨセフとマリアの息子であることを知っていたのかもしれません(6章42節参照)。いずれにしても、彼らのメシア論は、「メシアは天から到来するようなものであって、イエスのように素性が知れた者がメシアということはあり得ない」というものであったのでしょう。それが「メシアが来られるとき、それが、どこからか知っている者は一人もいない」という言葉になったのでしょう。
支配者層の考えがどうであろうと、「イエスはメシアではない」というのが彼らの考えであったのだと思います。しかしそれは、前回お伝えした7章24節の「うわべで裁くのをやめ、正しい裁きをしなさい」というイエス様の言葉に該当するものだったのです。イエス様が「ヨセフとマリアの子としてナザレで育った」ということは、うわべのことにすぎませんでした。
私をお遣わしになった方
28 イエスは神殿の境内で教えながら、大声で言われた。「あなたがたは私を知っており、どこの出身かも知っている。私は勝手に来たのではない。私をお遣わしになった方は真実であるが、あなたがたはその方を知らない。29 私はその方を知っている。私はその方のもとから来た者であり、その方が私をお遣わしになったのである。」
イエス様はそうした声に対して、神殿の境内で叫んで答えられています。この「叫ぶ(クラゾー)」という言葉は、ヨハネ福音書においては「預言者的―全権者的宣教の意味に解されるべきである」とされています(『ギリシア語新約聖書釈義事典(2)』371〜372ページ「クラゾー」の項目)。
イエス様は、「あなたがたは私を知っており、どこの出身かも知っている」と言われていますが、それはまさに「うわべのこと」として知っているにすぎないと指摘されているのです。
イエス様は勝手に来たのではなく、真実な方から遣わされて来たのです。この「真実」という言葉は「真理」と同じです。この2つの言葉は、日本語ではニュアンスの違いを感じますが、原語のギリシャ語ではかなり意味が近いです。つまり、イエス様はここで、「私は真理である方から遣わされた」と言われているのです。真理である方とは、父なる神様のことであり、その方によってイエス様がこの世に遣わされたということです。しかし、傍観者たちはそのことを理解していませんでした。
神様を知るということは、その独り子なる方を知ることによって、そしてその方を遣わした方を知ることにおいて可能になるのだろうと思います。しかし傍観者たちは、メシアであるイエス様が来られたいきさつについて、「うわべのこと」は知っていましたが、神様がお遣わしになった方であるという真実を知らなかったのです。
傍観者たちは、主なる神様を礼拝する人たちであったのでしょうけれども、神様がイエス様をお遣わしになったという真実に対しては盲目であったのです。そのため、イエス様は「あなたがたはその方を知らない」と言われたのです。傍観者たちは、イエス様を通して神様を見ることができなかったのです。
ユダヤ人たちの怒り
ヨハネ福音書は、その執筆目的が「①イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、②信じて、イエスの名によって命を得るためである」(20章31節)と定められていますが、「イエス様が神様から遣わされた独り子のメシアである」ということを読者に強く印象付けるイエス様の言葉が、ここで伝えられているのです。
しかしそれは、イエス様をメシアと認めないユダヤ人たちにとっては、聞き捨てならない神への冒瀆(ぼうとく)の言葉であったのです。イエス様は既に殺そうと付け狙われていましたが、この時の発言がさらにユダヤ人たちを怒らせてしまいました。
まだ来ていないイエス様の時
30 人々はイエスを捕らえようとしたが、手をかけることができなかった。イエスの時はまだ来ていなかったからである。
ユダヤ人たちはイエス様を捕えようとしましたが、実行することはできませんでした。その理由を、ヨハネ福音書は「イエスの時はまだ来ていなかったからである」としています。この「時」とは、イエス様の十字架の時ですが、ギリシア語では「ホーラ」という言葉が使われています。
「時」には通常「カイロス」が使われます。しかしルカ福音書も、同じ十字架の時を表す箇所では、やはり「ホーラ」を使って「時」を伝えています。
私は毎日、神殿の境内で一緒にいたのに、あなたがたは私に手出しをしなかった。しかし、今はあなたがたの時(ホーラ)であり、闇が支配しているのである。(ルカ22:53)
神学者カール・バルトは、ルカ福音書のこの箇所をヨハネ福音書の当該箇所と結び付けて、「ルカによる福音書22章53節で、このヨハネ的概念に全く符号するかたちで言われている『その』時であるだろう」としています(カール・バルト著『ヨハネによる福音書』419~420ページ)。
コラム「ルカ福音書を読む」の第46回でお伝えしましたが、新約聖書学者ハンス・コンツェルマンは、自著『時の中心—ルカ神学の研究』で、「ユダに悪魔が入ったことは、イエス様や弟子たちが守られていた時間が過ぎ行き、現実の時間が戻ってきたことを意味しており、守られていた中間の時が終わった」という内容のことを書いています。
つまり、ルカ福音書22章53節で、イエス様が「しかし、今はあなたがたの時であり、闇が支配しているのである」と語られたときは既に、ユダに悪魔が入り、「守られていた中間の時」が終わっていることになります。
これに対し、ヨハネ福音書が「イエスの時はまだ来ていなかったからである」と伝えているのは、その時点ではまだ「現実の時間」は戻っておらず、ユダヤ人たちはイエス様に対し強い怒りを抱いてはいたものの、まだ「守られていた中間の時」であったということなのではないかと思います。
しかし、ヨハネ福音書においてもほどなくして、ユダが夜の闇の中に出て行く(13章30節)ことになります。(続く)
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