今回は、6章51節c~58節を読みます。
ヨハネ福音書における聖餐式の指示
51c 「私が与えるパンは、世を生かすために与える私の肉である。」
キリスト教礼拝の中心は聖餐式です。多くのプロテスタント教会では、聖餐式は月に一度にしており、コロナ以後はそれも見送っている教会もあると思いますが、カトリック教会や聖公会では聖餐式抜きの礼拝はなかなか考えにくいと思います。
それは、イエス様が最後の晩餐の時に、聖餐式の指示をしたからです(マタイ26章26~30節、マルコ14章22~26節、ルカ22章15~20節、第1コリント書11章23~25節)。そして、世々の教会はその教えを守ってきました。だから教会は、聖餐式を礼拝の中心としているのです。
このように、3つの福音書とパウロ書簡は、最後の晩餐での聖餐式の指示を伝えています。ところが、ヨハネ福音書だけそれを伝えていません。しかし、イエス様はこのパンの説話の中で、聖餐式について語っておられます。
イエス様は、共観福音書などによりますと、最後の晩餐での聖餐式の指示において、パンを裂いて、「これは、あなたがたのための私の体である」と言われました(第1コリント書11章24節および共観福音書におけるその並行箇所)。今日の聖餐式でも、この言葉が読まれます。51節cでは、これと同じように、「私が与えるパンは、世を生かすために与える私の肉である」という言葉が伝えられています。そのため、この箇所が聖餐式の指示であるといわれています。
出エジプトの出来事につながる聖餐式
52 それで、ユダヤ人たちは、「どうしてこの人は自分の肉を我々に与えて食べさせることができるのか」と言って、互いに議論し合った。
前回、6章22~59節は集中構造になっており、「イエス様が『私は天から降って来た』と言ったことについて、ユダヤ人たちがつぶやいた」ことが、その中心部であり、そこでユダヤ人たちが「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている」(42節前半)と言ったことが、この箇所の中心メッセージであるとお伝えしました。
ここで考えさせられたことは、ユダヤ人たちが「つぶやいた」ことは、旧約聖書の出エジプトの出来事からつながっているのではないかということです。出エジプト記には、エジプトを脱出したイスラエルの民が空腹のあまり、モーセとアロンに対して、「私たちはエジプトの地で主の手にかかって死んでいればよかった。あのときは肉の鍋の前に座り、パンを満ち足りるまで食べていたのに、あなたがたは私たちをこの荒れ野に導き出して、この全会衆を飢えで死なせようとしています」(16章3節)と、「つぶやいた」ことが伝えられています。
神様は、イスラエルの民のこのつぶやきを聞いて、彼らに対してマナを降らせてくださったのです。このパンの説話でも、イエス様はつぶやくユダヤ人たちに対して、「つぶやくのはやめなさい」と言い、永遠の命に向けて方向転換させてくださっています(前回参照)。
52節では、ユダヤ人たちが、イエス様がご自身の肉を食べるように言われたことに対して、そんなことができるわけないと議論を始めたことが伝えられています。この「議論をする」という言葉は、「つぶやく」と同義であるとされます(伊吹雄著『ヨハネ福音書注解Ⅱ』133ページ)。そのつぶやきに対してイエス様が語られた説話の中に、ヨハネ福音書における聖餐式の指示があるのです。
現在終末論に包含された未来終末論
53 イエスは言われた。「よくよく言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたがたの内に命はない。54 私の肉を食べ、私の血を飲む者は、永遠の命を得、私はその人を終わりの日に復活させる。
パンの説話では、26節、32節、43節に続く4回目の「よくよく言っておく」(原語では「アメーン・アメーン・レゴー・ヒューミン」)を伴うイエス様の言葉です。「人の子(イエス様)の肉を食べ、その血を飲む」という、まさに聖餐式の指示がなされています。それは当然ながら、イエス様の体を象徴するパンを食べ、イエス様の血を象徴するぶどう酒(ジュース)を飲むことです。
そして、そうするならば「私はその人を終わりの日に復活させる」と言われています。「終わりの日」というのは、聖書の解説では「終末の日」ともいわれ、そのことを論じたものを「終末論」といいます。これは、旧約聖書と、新約聖書の特にヨハネ福音書では、内容が大きく違っています。
聖書が伝える「終わりの日」は、大きく分けると3つに分類されるといってよいでしょう。
① 旧約聖書的な終わりの日
ダニエル書12章2節の「地の塵となって眠る人々の中から、多くの者が目覚める。ある者は永遠の命へと、またある者はそしりと永遠のとがめへと」を受けた信仰が、旧約聖書的な終わりの日です。ヨハネ福音書では11章24節に、マルタによる「終わりの日の復活の時に復活することは存じています」という言葉が伝えられていますが、これはダニエル書の言葉を受けた信仰告白です。これによるならば、永遠の命が与えられるのは、この「終わりの日の復活の時」です。
② 現在終末論による終わりの日
次に、新約聖書のヨハネ福音書が伝えるイエス様の言葉に基づいた終わりの日があります。第16回でお伝えしましたが、5章24節の「私の言葉を聞いて、私をお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁きを受けることがなく、死から命へと移っている」という、「今この時に永遠の命が与えられる」という信仰を、「現在終末論」といいます。
③ 現在終末論的未来形
「現在終末論的未来形」とは、伊吹雄氏による言葉です。ダニエル書の「終わりの日の復活の時」と同様、未来のことではありますが、ここでの未来は、「あくまでも現在終末論の中に未来終末論は吸収されているのである。単なる未来ではなく神の確約である。今信じて命のパンを受ける者は『よみがえらされる』のであって、この未来は現前しており意志を含めた現在終末論的未来形と言ってもよいであろう。終わりの日とはイエスの栄光化の時、霊の降臨の時とともに始まる」(前掲書123ページ)のです。
ダニエル書は、イエス様が来られる前のものですから、そこには復活信仰はあっても、イエス・キリストの栄光化の時はありません。しかし新約聖書は、イエス・キリストが再び来られることを教えており、ヨハネ福音書が伝えていることは、それが「今来ている」ということなのです。
54節の「私はその人を終わりの日に復活させる」は、39、40、44節と共に、伊吹氏の言うところの「現在終末論的未来形」なのです。それは未来のことでありつつも、今既に起きている出来事として、イエス様によって語られているということなのだと思います。
「私の内にとどまり、私もまたその人の内にとどまる」
55 私の肉はまことの食べ物、私の血はまことの飲み物だからである。56 私の肉を食べ、私の血を飲む者は、私の内にとどまり、私もまたその人の内にとどまる。
ここでの「とどまる」は、本コラムで何度かお伝えしている、ギリシャ語の「メノー」という言葉によるものです。15章の「イエスはまことのぶどうの木で、私たちはそこにつながる枝である」という説話における「つながる」もメノーです。私たちがイエス様にとどまり、イエス様が私たちにとどまっているということは、私たちとイエス様がつながっているということです。
新しいマナ
57 生ける父が私をお遣わしになり、私が父によって生きるように、私を食べる者も私によって生きる。58 これは天から降って来たパンである。先祖たちが食べたが死んでしまったようなものではない。このパンを食べる者は永遠に生きる。」
これまで読んできましたように、パンの説話は、旧約聖書の出エジプトの物語を継ぐものであり、ここでのパンは、マナとは違って食べる者が「永遠に生きる」食物です。ここでの「永遠に生きる」も、現在終末論的未来形であり、「今ここにおいて」与えられている「永遠に生きる」食物といってよいでしょう。それが聖餐式によって実現されていることが、今回の箇所の中心的なメッセージであると思います。(続く)
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