今回は、5章31~47節を読みます。ここは、ベトザトの池のほとりにおけるイエス様の説教の第2場面です。そしてその内容は、ここでの説教のきっかけとなった安息日規定を教えているモーセに行き着くことになります。
証しをされる方
31 「もし、私が自分自身について証しをするなら、私の証しは真実ではない。32 私について証しする方は別におられる。そして、その方が私について証しする証しは真実であることを、私は知っている。
ヨハネ福音書は、イエス様とユダヤ人たちを、裁判における告発者と被告者の構図で捉えているように思えます。その頂点が、18~19章のピラトの下での裁判です。実は、今回のイエス様の説教も、裁判の形で進められています。最初はイエス様が告発され、次にユダヤ人たちが告発される形になっています。
聖書を読んでいますと、イスラエルでは古代から裁判の制度が発達していたように思えます。旧約聖書では特に、申命記、ルツ記、箴言などにそれを見ます。町の門の所に長老が集まり、罪を犯した者に対して裁きを下すのです。そこには告発者、被告者の他に、証人も呼ばれます。
申命記19章15節に、「どのような過ちや罪であれ、人が犯した罪は一人の証人によって確定されることはない。人が犯したどのような罪も、二人または三人の証人の証言によって確定されなければならない」とあります。一人の証人(告発者)だけの証言では人を罪に定めることはできず、他の証人の証言が必要であったのです。
31~40節では、被告者はイエス様、告発者はユダヤ人たち、告発内容は前回までにお伝えした、安息日に床を担ぐように指示したこと、自分を神と同等としたことでした。つまり、「安息日を覚えて、これを聖別しなさい」「私をおいてほかに神々があってはならない」という、モーセの律法を破ったことを中心として、裁判が行われているという構成になっているといえます。
イエス様は、この裁判でご自身の側について証人になってくださる方がいると言われます。その方は神様です。それで、神様の側として証しをする証人たちが示されるのですが、ユダヤ人たちの無理解も同時に示されます。証人として示されるのは、1)洗礼者ヨハネ、2)イエス様の業、3)父なる神様の啓示、4)聖書です。
洗礼者ヨハネの証し
33 あなたがたはヨハネのもとへ人を送ったが、彼は真理について証しをした。34 私は人間による証しは受けない。しかし、このことを言うのは、あなたがたが救われるためである。35 ヨハネは燃えて輝く灯(ともしび)であった。あなたがたは、しばらくの間、その光を楽しもうとした。
1番目に証人として示されたのは、洗礼者ヨハネでした。ヨハネ福音書が伝えるイエス様の1回目のエルサレム行きでは、ヨハネはまだ投獄前でした。しかしここでは、ヨハネに関することが全て過去形になっています。恐らく彼が処刑された(マルコ福音書6章14~29節)後であったからでしょう。
ユダヤ人たちは既に洗礼者ヨハネの元に人を遣わしていました(1章19節)。ヨハネは、真理について、つまりイエス様について証しをしていました。それは、イエス様という真の光を指し示す灯であったのです。そしてユダヤ人たちは、ヨハネのその光を、しばしの間楽しもうとしていました。しかし、それ以上のことではなかったのです。つまり、ヨハネが指し示していた真の光、すなわちイエス様を信じるには至らなかったのです。
イエス様の業による証し
36 しかし、私には、ヨハネの証しにまさる証しがある。父が私に成し遂げるようにお与えになった業、つまり、私が行っている業そのものが、父が私をお遣わしになったことを証ししている。
2番目に証人として示されたのは、イエス様のなさった業です。その証しは、洗礼者ヨハネの証しに勝っているものであり、イエス様が父なる神様から遣わされたことを示すものでした。しかしユダヤ人たちは、イエス様が神様から遣わされたことを認めようとせず、イエス様を殺害しようとさえしていました。
父なる神様の啓示による証し
37 また、私をお遣わしになった父が、私について証しをしてくださる。あなたがたは、父の声をまだ聞いたこともなければ、お姿を見たこともない。38 また、あなたがたは、父のお言葉を自分の内にとどめていない。父がお遣わしになった者を、あなたがたは信じないからである。
3番目の証人として示されたのは、父なる神様の啓示です。1章18節に「いまだかつて、神を見た者はいない。父の懐にいる独り子である神、この方が神を示されたのである」とあります。独り子である神、すなわちイエス様だけが父なる神様を啓示されたのです。
ですから、イエス様を信じなければ、神様の声を聞くことはできませんし、その姿を見ることもできませんし、自分の内に神様の言葉をとどめることもできません。イエス様を信じるならば、イエス様の内にそれらのものを確認することができるのです。しかしユダヤ人たちには、それができなかったのです。
ユダヤ人たちは、旧約聖書に示されている神様の啓示は信じていたでしょう。しかし、独り子イエス様による神様の啓示は、信じることができなかったのです。
聖書による証し
39 あなたがたは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を調べているが、聖書は私について証しをするものだ。40 それなのに、あなたがたは、命を得るために私のもとに来ようとしない。
イエス様について証ししている4番目の証人は旧約聖書です。ユダヤ人たち、特にファリサイ派の人たちは、律法や預言書を一生懸命に調べていました。しかしそれが指し示し、証しをしているのはイエス様なのです。ですから、永遠の命を得るのであれば、聖書が証しをしているイエス様のところに行かねばならなかったのです。けれどもユダヤ人たちは、イエス様のところに行くのではなく、殺そうとさえしていたのです。
イエス様を受け入れないユダヤ人たち
41 私は、人からの栄光は受けない。42 しかし、あなたがたの内には神への愛がないことを、私は知っている。43 私は父の名によって来たのに、あなたがたは私を受け入れない。もし、ほかの人が自分の名によって来れば、その人を受け入れるだろう。44 互いに相手からの栄光は受けるのに、唯一の神からの栄光は求めようとしないあなたがたには、どうして信じることができようか。
これら4つの証人たちの証しによって、イエス様が父なる神様から遣わされたことが明らかにされました。しかしユダヤ人たちは、イエス様を受け入れることをしなかったのです。それは、彼らの内に神様への愛がなかったからです。
ユダヤ人たちは、ヨハネの灯を楽しもうとしましたし、イエス様のなさった業を見て喜んだでしょうし、旧約聖書による神様の啓示は信じていたでしょうし、聖書を調べることはしていたでしょう。しかし、自分自身の誉れのためにそれらのことを行っていたために、神様への愛を持つことができず、神様の業である、独り子イエス様を受け入れることができなかったのです。
モーセによる告発
45 私が父にあなたがたを訴えるなどと考えてはならない。あなたがたを訴えるのは、あなたがたが頼りにしているモーセなのだ。46 もし、あなたがたがモーセを信じているなら、私を信じたはずだ。モーセは、私について書いたからである。47 しかし、モーセの書いたことを信じないなら、どうして私の言葉を信じるだろうか。」
裁判の構図で語られているこの場面ですが、ユダヤ人たちがイエス様を告発していた局面から、今度はユダヤ人たちが告発される局面へと移っていきます。しかし、ユダヤ人たちを告発するのはイエス様ではなく、旧約聖書に示されているモーセです。モーセの律法は、イエス様を指し示し、また書いているのです。ですからイエス様を信じないならば、モーセによって告発されるのだというのです。
ユダヤ人たちは、ベトザタの池のほとりで、病気を癒やされた人が安息日に床を担いだことを、モーセの律法を破ったとして、イエス様を非難しました。しかし、そのモーセの律法というのは、イエス様を指し示しているものであり、そのことから、ユダヤ人たちが逆に告発されることになるのです。(続く)
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