イエス様が安息日に、ベトザタの池において、38年の間病気で苦しんでいた人を癒やされたために、ユダヤ人から迫害され、さらに「私の父は今もなお働いておられる。だから、私も働くのだ」(5章17節)と話したことで、神様と自分を同等に扱ったとして、ユダヤ人から殺そうと付け狙われるようになったことを、前回までにお伝えしました。
今回と次回でお伝えする5章19~47節は、こうした一連の経緯に対するイエス様の言葉が伝えられています。どこで語られたのかは記されていませんが、ベトザタの池のほとりとするのが自然でしょう。ここではそのように想定して文を進めたいと思います。
今回は、前半として19~30節を読みます。ここでは、「よくよく言っておく」というイエス様の言葉が、19、24、25節と3回伝えられています。この言葉は、原語では「アメーン・アメーン・レゴー・ヒューミン」(レゴーは「言う」、ヒューミンは「あながたに」)です。ヨハネ福音書では全部で25回も伝えられている言葉です(ジークフリート・シュルツ著『NTD新約聖書註解(4)ヨハネによる福音書』169ページ)が、他の福音書には見られません。
イエス様がこの言葉で語り出している箇所は、いずれも重要なことが説かれています。ですから今回は、そこに着目して読んでいきたいと思います。
死者を復活させる
19 そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「よくよく言っておく。子は、父のなさることを見なければ、自分からは何もすることができない。父がなさることは何でも、子もそのとおりにする。20 父は子を愛して、ご自分のなさることをすべて子に示されるからである。また、これらのことよりも大きな業を子にお示しになって、あなたがたは驚くことになる。21 父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、自分の望む者に命を与える。22 また、父は誰をも裁かず、裁きをすべて子に委ねておられる。23 すべての人が、父を敬うように、子を敬うためである。子を敬わない者は、子をお遣わしになった父をも敬わない。
イエス様は、自分を神様と等しい者としたために、ユダヤ人から殺そうと付け狙われることになりますが、「父がなさることは何でも、子もそのとおりにする」(19節)と、父なる神様と自分を同等に扱う言葉を再度語られます。17節が伝えていたことは、「父は安息日にも働いているから、子である私も働くのだ」ということでしたが、この時は「父と同じように、子である私も死者に命を与える」ということを語られました。
ローマ書4章17節に、「彼(アブラハム)はこの神、すなわち、死者を生かし、無から有を呼び出される神を信じたのです」というパウロの記述があるように、私たちの信じる神様は、死者を復活させる方、すなわち死者に命を与える方です。「父がそういう方であるから、私もそのようにするのである」とイエス様は語っておられるのです。
21節の「復活させて」は、ギリシャ語でエゲイローです。8節の「起きなさい」というベトザタの池で病者に対して言われた言葉も、同じエゲイローです。つまり、ベトザタの池での癒やしの出来事は、イエス様が死者を復活させることの象徴的な行為であったのです。イエス様は、父なる神様が死者を復活させる方であるからこそ、病者を癒やされたのです。
しかしイエス様は、「これらのことよりも大きな業を子にお示しになって、あなたがたは驚くことになる」(20節)と語られています。「これらのこと」とは、ベトザタの池での癒やしなどのことでしょう。神様はそれよりもさらに大きな御業をなされるということです。その意味するところは、イエス様が再臨されるときに死者を復活させることでしょう(ハンス・コンツェルマン著『新約聖書神学概論』442ページ)。そしてその時のイエス様には、裁きの権限が与えられているのです(22節)。
けれどもユダヤ人たちは、その裁きの権限が与えられているイエス様を殺そうと付け狙うようになっていたのです。イエス様はそれに対して、「子を敬わない者は、子をお遣わしになった父をも敬わない」と言われているのです。
現在終末論
24 よくよく言っておく。私の言葉を聞いて、私をお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁きを受けることがなく、死から命へと移っている。
ベトザタでの説教の場面における2度目の「よくよく言っておく」フレーズです。イエス様の言葉を聞いて神様を信ずる者は永遠の命を受け、裁かれることなく、既に死から命へと移っているということが言われています。
21節ではイエス様が再臨されるとき、すなわち終末において死者を復活させることが伝えられていました。それだけでしたら、永遠の命は死後に与えられることになるでしょう。しかし、ヨハネ福音書が伝えているイエス様の言葉は、今この時に永遠の命が与えられるというものです。これをヨハネ福音書の「現在終末論」といいます。
このことは、ヨハネ福音書を読むときに大切なことです。ヨハネ福音書ではこの後も永遠の命という言葉が繰り返されますが、それは死後のことではなく、今この時に永遠の命が与えられるということが伝えられているのです。それは第8回でお伝えしたように、信仰を通して贈られた神様の時や安定性にあずかることを意味しています(『旧約新約聖書神学事典』157ページ)。
25 よくよく言っておく。死んだ者が神の子の声を聞き、聞いた者が生きる時が来る。今がその時である。26 父が、ご自身の内に命を持っておられるように、子にも自分の内に命を持つようにしてくださったからである。27 また、父は裁きを行う権能を子にお与えになった。子は人の子だからである。28 このことで驚いてはならない。時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞く。29 そして、善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るであろう。
3度目の「よくよく言っておく」フレーズです。その言葉に続いて、「死んだ者が神の子の声を聞き、聞いた者が生きる時が来る。今がその時である」と語られています。「今がその時である」とされていることや、文脈から判断すると「死んだ者」とは、今の世にあって闇の中にある不信仰な人たちのことでしょう(前掲『NTD新約聖書註解(4)ヨハネによる福音書』166ページ)。闇の世にある者が、神様の子であるイエス様の声を聞くことによって生かされるということです。
26節の、父なる神様の内にある命と、神様の子であるイエス様の内にある命というのは、人に命を授けることのできる創造の力を持つ命ということでしょう。21節の内容が繰り返されているともいえます(同)。創造の力を持つ命が、イエス様に与えられているということです。私たちは、その力によって新たな命を受けることができるのです。
28~29節は、それまでの現在終末論に基づく言葉とは違い、未来終末論において語られているといわれます(伊吹雄著『ヨハネ福音書注解Ⅱ』59ページ)。
裁き主イエス様
30 私は自分からは何もできない。聞くままに、裁く。そして私の裁きは正しい。それは、私が自分の意志ではなく、私をお遣わしになった方の御心を求めているからである。」
19~30節では、永遠の命が与えられることと裁きが表裏一体になって伝えられています。30節は裁きのみです。裁きを語ることはなかなか難しいのですが、追々お伝えしていきたいと思います。(続く)
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