今回は、5章9節b~18節を読みます。
立ち去ったイエス様
9b その日は安息日であった。10 そこで、ユダヤ人たちは病気を癒やしていただいた人に言った。「今日は安息日だ。床(とこ)を担ぐことは許されていない。」 11 しかし、その人は、「私を治してくださった方が、『床を担いで歩きなさい』と言われたのです」と答えた。12 彼らは、「お前に『床を担いで歩きなさい』と言ったのは誰だ」と尋ねた。13 しかし、病気を治していただいた人は、それが誰であるか知らなかった。群衆がその場にいたので、イエスはそっと立ち去られたからである。
前回、イエス様がエルサレムのベトザタの池のほとりで、38年間も病気で苦しんでいた人を癒やされた話をお伝えしました。癒やされた人は床を担いで歩き出しました。イエス様は、その後すぐにその場所から立ち去られます。ヨハネ福音書は、レトリカルに13節までそのことを伏せています。
ここでヨハネ福音書は、この日が安息日であったことを明らかにします。安息日は、モーセの十戒によって仕事をすることが禁じられていました。物を運ぶ行為は仕事に値することであったのです。ここから5章の最後までモーセが話題とされていますが、床を担ぐことは物を運ぶことであり、安息日にそれを行うことは、モーセの十戒に反するとされていたのです。
ヨハネ福音書では、ここからユダヤ人たちのイエス様に対する本格的な迫害が始まります。ただ最初は、イエス様よって癒やされた人に対して攻撃がなされました。ユダヤ人たちは、癒やされた人に対して、「今日は安息日だ。床を担ぐことは許されていない」と言いました。しかしこの人は、「私を治してくださった方が、『床を担いで歩きなさい』と言われたのです」と答えます。この人はイエス様とは初対面であったのでしょう。イエス様のことを何も知りませんでした。
イエス様との再会
14 その後、イエスは、神殿の境内でこの人に出会って言われた。「あなたは良くなったのだ。もう罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない。」
癒やされた人はその後、神殿でイエス様と再会します。ところで、この癒やされた人は、一般的にはネガティブに捉えられています。9章に登場する癒やされた目の見えなかった人と比較されることが多いのですが、9章の登場人物は信仰告白しているのに対し、5章に登場するこの人は、言葉で信仰告白をしていないため、よりネガティブな解釈が散見されます。
そうした中で、この癒やされた人に対して、徹頭徹尾ポジティブな見解を与えているのがオディです(G・R・オディ著『NIB新約聖書注解5 ヨハネによる福音書』113~116ページ)。彼によれば、この癒やされた病者の出来事は、9章に登場する目の見えなかった人の癒やしの出来事とコントラストをなすのではなく、むしろその予示なのです(同書115ページ)。
私は、イエス様が神殿で語られるこの言葉に「聖性」を感じます。そして、「もう罪を犯してはいけない」という言葉がかけられたのは、この人が単に体を癒やされて終わりではなく、「霊的にも健康になる必要」(同書115ページ)があったからなのです。
つまり、この癒やされた人には、永遠の命への道が示されているのであって、この人がそれを拒否していることはどこにも見当たりません。私は、オディの主張を基調にして、この癒やされた人の話を読むことが、自然な読み方であると捉えています。
第1回でお伝えしましたように、ヨハネ福音書が書かれた目的は、①イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、②信じて、イエスの名によって命を得るためです(20章31節)。ユダヤ人などの反対者ではない登場人物たちは、この2つの目的に読者を誘(いざな)っているのです。今回の癒やされた人も、「霊的にも健康になる」言葉をかけられたことが伝えられていることによって、その目的を果たしていると思います。
いずれにしましても、ここでのイエス様との対面によって、癒やされた人は、自分を治した人がイエスであったことを知ったのです。
ユダヤ人たちの迫害が始まる
15 この人は立ち去って、自分を治したのはイエスだと、ユダヤ人たちに知らせた。16 そのため、ユダヤ人たちはイエスを迫害し始めた。イエスが安息日にこのようなことをしておられたからである。
癒やされた人はイエス様の元を立ち去り、恐らくベトザタの池に戻ったのだと思います。そしてそこで、「自分を治したのはイエスだ」と、当初は誰に治されたかを伝えることができなかった相手である、ユダヤ人たちにそれを知らせました。
このくだりも、多くのネガティブな解釈においては、「イエスの名をユダヤ人たちに密告した」という意味合いのものが多いのですが、オディは同書115ページにおいて、以下のように記しています。
それ故、この男の言葉は、ユダヤ人たちに対する肯定的な告知として読むことが可能である。この男に床を担いで歩けと命じたのは誰か、彼に安息日の掟(おきて)を破れとそそのかしたのは誰か、その点がユダヤ人たちの関心事であった。しかしこの男が彼等に知らせたことはそんなことではなかった。彼は「ユダヤ人たち」に「自分をいやしたのはイエスだ」と語っている。彼はイエスを安息日の掟破りとして密告しているのではなく、イエスこそ自分をいやしてくれた人であることを告知しているのである。
しかし、ユダヤ人たちは依然としていやしには興味を示さない。命を救ういやしは安息日にも認められるだろうが、38年も患っている人のいやしは日没まで待つことが当然出来るはずである。ユダヤ人たちが相変らず問題にしているのはただ一つ、安息日の掟破りである(16節)。この男の告知から、彼等はイエスを告発するために必要な証拠を手にいれる(「そのために」)。
しかしこの結末に関しては男には何の責任も無い。悪いとしてもせいぜい、彼は知らず知らずに彼等の手先になってしまったということで、それはユダヤ人たちが本当は何を問題にしているかを測ることが出来なかったからである(これは7節に示されたいやしに対する彼の態度と符合する)。しかし15節におけるこの男の行為は、14節のイエスの言葉を実行しようとする―欠けるところの無い生き方をする―ものであったのかもしれない。
癒やされた人の行為は密告ではなく、むしろ「『もう罪を犯してはいけない』というイエスの言葉を実行しようとしたのではないか」という解釈をしているのです。
私は、「自分を治したのはイエスだと、ユダヤ人たちに知らせた」という部分を読むと、第11回でお伝えした、サマリアの女性が町の人たちに、「さあ、見に来てください。私のしたことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません」と告げたことと重ね合わせてしまいます。癒やされた人は、イエス様のなさったことを人々に告知する役割を果たしているのです。
しかし、ユダヤ人たちはそれを素直に受け取りません。逆手に取って、「安息日に床を担ぐように命じたのはイエスである」ということだけを切り取り、イエス様への迫害を始めます。サマリアの町の人たちは女性の告知を受け入れましたが、ユダヤ人たちは癒やされた人の告知を受け入れなかったのです。
16節は、後代のヨハネ共同体における編集者の手による説明句でしょう。この時からユダヤ人たちによるイエス様の迫害が始まったということを、ヨハネ福音書は読者に伝えています。
父が働くから私も働く
17 イエスはお答えになった。「私の父は今もなお働いておられる。だから、私も働くのだ。」 18 このためにユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうと付け狙うようになった。イエスが安息日を破るだけでなく、神を自分の父であると言い、自分を神と等しい者とされたからである。
癒やされた人はここで姿を消します。あるいは、この後イエス様が話されることを、片隅でそっと聞き続けていたのかもしれません。代わってイエス様が、ユダヤ人たちの前に再登場します。そして、彼らに「私の父は今もなお働いておられる。だから、私も働くのだ」とお答えになります。天地創造以後、神様は安息日に休まれるということはされていないからです。
18節も、後代のヨハネ共同体における編集者の手による説明句でありましょうが、それによりますと、これを聞いたユダヤ人たちは、安息日違反だけでなく、「自分と神を等しい者」としたとして、イエス様をさらに迫害するようになります。しかも今度は、殺そうと付け狙うようになりました。イエス様の十字架への歩みが始められることになったのです。(続く)
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