今回は、4章16~29節を読みます。
宗教的な意味合いを持つ「5人の夫」
16 イエスが、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われると、17 女は答えて、「私には夫はいません」と言った。イエスは言われた。「『夫はいません』というのは、もっともだ。18 あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたの言ったことは本当だ。」
前回、サマリアの女性の発言が、「主よ、渇くことがないように、また、ここに汲(く)みに来なくてもいいように、その水をください」と、イエス様の言葉を受け入れるものに変わっていったことをお伝えしました。
その後、イエス様はさらに女性に、「行ってあなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われます。ここでは、隠引(いんいん)法と呼ばれる修辞法が使われています(萬澤正美著『ヨハネの修辞』230ページ)。隠引法とは、故事や古典の一節などを、特にその出所などを明らかにせずに引用する修辞法です。
前回、サマリア人は、もともとイスラエル人であった人たちが、アッシリアに征服され、混血化と宗教混交が行われた民族であるとお伝えしました。その様子については、列王記下17章24節以下に、次のように伝えられています。
24 アッシリアの王は、バビロン、クト、アワ、ハマト、セファルワイムから人々を連れて来て、イスラエルの人々の代わりに、彼らをサマリア各地の町に住まわせた。そこで、彼らはサマリアを所有し、各地の町に住むことになった。25 彼らはそこに住み始めた頃、主を畏れ敬う者ではなかったので、主は彼らにライオンを送り込まれた。ライオンが何人かの人をかみ殺したので、26 彼らはアッシリアの王にこう言った。「あなたがサマリア各地の町に移り住まわせた諸国民は、この地の神のしきたりを知りません。そこで、神は彼らにライオンを送り込まれたので、ライオンは彼らをかみ殺しているのです。この地の神のしきたりを知らないからです。」
27 そこで、アッシリアの王は命じた。「あなたがたが捕囚として連れ去った祭司の一人を、元いたところに連れ戻しなさい。連れ戻してそこに住まわせ、その地の神のしきたりを教えさせなさい。」 28 こうして、サマリアから捕囚として連れ去られた祭司の一人が戻って来て、ベテルに住み、どのように主を畏れ敬うべきかを教えた。29 しかし、諸国民はそれぞれ自分たちの神を造り、サマリア人が造った高き所の宮に安置した。諸国民はそれぞれ自分たちが住む町でそのようにした。
30 バビロンの人々はスコト・ベノトの神を造り、クトの人々はネレガルの神を造り、ハマトの人々はアシマの神を造った。31 アワ人はニブハズとタルタクの神を造った。セファルワイム人は、セファルワイムの神アドラメレクとアナメレクに、自分たちの子どもを火で焼いて献(ささ)げた。32 彼らは主を畏れ敬いはした。しかしながら、自分たちの中から高き所の祭司たちを任命し、その者たちが高き所の宮で、彼らのために祭儀を執り行った。33 彼らは主を畏れ敬ったが、n連れて来られる前にいた国々のしきたりに従って自分たちの神々にも仕えた。
サマリア人は、5つの異国の神々と混交したヤハウェ宗教を信仰していたのです。イエス様が「行ってあなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われたのは、「あなたの神を連れて来なさい」ということであったといわれています(カール・バルト著『ヨハネによる福音書』297ページ)。
それに対して女性は、イエス様が問いかけた宗教的な文脈において、「私には夫はいません」と答えました。イエス様は、「『夫はいません』というのは、もっともだ。あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない」と言われました。5人の夫というのは、5つの異国の神々が混交したヤハウェ宗教を指しています。
しかし、当時のサマリア人は、他の神々が混交したこのヤハウェ宗教に加え、サマリア人が礼拝を行っていたゲリジム山の、犠牲(いけにえ)を載せる石の表面において、さらなる偶像崇拝を行っていたようです(G・S・スローヤン著『現代聖書注解 ヨハネによる福音書』116~117ページ)。これはもう、夫とは言いえない異教です。それでイエス様は、「今連れ添っているのは夫ではない」と言われたのです。
サマリアにおける伝道の予告
19 女は言った。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。20 私どもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」 21 イエスは言われた。「女よ、私を信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。22 あなたがたは知らないものを礼拝しているが、私たちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。23 しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真実をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。24 神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真実をもって礼拝しなければならない。」
以後、イエス様と女性の会話は、非常にスムーズに進行していきます。私は、この女性が、イエス様が言われていることの宗教的な意味合いを理解していると捉えています。女性は、「主よ、あなたは預言者だとお見受けします」と、イエス様に対して宗教者としての敬意を表しています。
自分たちがおかれている宗教的な立ち位置について、イエス様に見抜かれたこの女性は、「私どもの先祖はこの山(ゲリジム山)で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています」と、宗教的な問題に切り込みます。
それに対してイエス様は、「あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る」と言われました。これは、やがて初代教会がサマリアで伝道を行うことの予告です。使徒言行録8章4~25節を読みますと、そのサマリア伝道の様子が伝えられています。そのようにして、ゲリジム山でもエルサレム神殿でもない所、つまりイエス・キリストの教会において、父なる神を礼拝する時が来るのです。
サマリアの女性のメシア告白
25 女は言った。「私は、キリストと呼ばれるメシアが来られることを知っています。その方が来られるとき、私たちに一切のことを知らせてくださいます。」 26 イエスは言われた。「あなたと話をしているこの私が、それである。」
27 その時、弟子たちが帰って来て、イエスが女の人と話をしておられるのに驚いた。しかし、「何をお求めですか」とか、「何をこの人と話しておられるのですか」と言う者はいなかった。
28 女は、水がめをそこに置いて町に行き、人々に言った。29 「さあ、見に来てください。私のしたことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。」
4章1~42節は「サマリアの女性」の話ですが、25~29節はそのクライマックスを成しているところです。女性は、「私は、キリストと呼ばれるメシアが来られることを知っています」とイエス様に告げます。この言葉は、読者をメシア告白へと導くことが目的であるヨハネ福音書の、読者の意識をそこに向ける働きをしています。
イエス様は、「あなたと話をしているこの私が、それである」とお答えになります。ここは、「私は~である / エゴー・エイミ~」という、ヨハネ福音書に独特な、主にイエス様がご自身のメシア性を示すときに語られる言葉が使われています。
原文には「それ」という言葉もありません。「私は、キリストと呼ばれるメシアが来られることを知っています」と言った女性に対して、「私だ」と単刀直入に答えておられます。「あなたと話をしている私がメシアである」ということなのです。
その時、買い物に行っていた弟子たちが帰ってきました。イエス様が女性と話しているのを見て驚きはしますが、「何をお求めですか」とか「何をこの人と話しておられるのですか」と言う者はいませんでした。問う者がいないことを告げることによって、ここで重要な事柄が起きていることが示されています。
つまり、この時に女性は、イエス様をメシアと受け入れているのです。その変革が、女性の中で起きているのです。女性は、水がめをそこに置いて町に帰ります。決して渇かない永遠の命の水をイエス様から頂いた、つまりイエス様への信仰が成立した女性には、もう水がめは必要ないのです。
町に帰った女性は、「さあ、見に来てください。私のしたことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません」と言います。「この方がメシアかもしれません」というのは、女性が半信半疑であったということではなく、町の人たちをイエス様のところへ向かわせるための喚起の言葉であったと思います。
「私のしたことをすべて、言い当てた人がいます」というところで、イエス様との宗教的な文脈でのやり取りから、女性の実生活を指し示すことになっていきます。私はこれも、ヨハネ福音書の修辞法の一つではないかと考えています。しかし、この言葉によってサマリアの町の人たちにも動きが起こります。(続く)
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