今回は、2章13~22節を読みます。
13 ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムへ上って行かれた。14 そして、神殿の境内で、牛や羊や鳩を売る者たちと両替人たちが座っているのを御覧になった。15 イエスは縄で鞭(むち)を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、16 鳩を売る者たちに言われた。「それをここから持って行け。私の父の家を商売の家としてはならない。」
17 弟子たちは、「あなたの家を思う熱情が私を食い尽くす」と書いてあるのを思い出した。
18 ユダヤ人たちはイエスに、「こんなことをするからには、どんなしるしを私たちに見せるつもりか」と言った。19 イエスは答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」 20 それでユダヤ人たちは、「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、三日で建て直すと言うのか」と言った。
21 イエスはご自分の体である神殿のことを言われたのである。22 イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。
宮清めを冒頭で伝えるヨハネ福音書
13節に、過越祭が近づいたのでイエス様がエルサレムに上ったと伝えられていますが、ヨハネ福音書では、6章4節と11章55節にも過越祭が近づいたということが伝えられています。つまり、イエス様は、公生涯といわれる宣教を行っていた期間に3度過越祭に行かれています。それ故に、イエス様の公生涯は3年間であるといわれています。
イエス様が十字架にかけられたのが33歳の時とされているのは、ルカ福音書3章23節に「イエスご自身が宣教を始められたのは、およそ三十歳の時」とあり、これにヨハネ福音書から読み取れる公生涯の期間約3年を足しているためです。
神殿から商人たちを追い出すお話は「宮清め」といわれていて、4つの福音書全てに記載されています。しかし、ヨハネ福音書以外の、共観福音書といわれているマタイ、マルコ、ルカの各福音書では、それぞれの福音書の終わりの方、つまり十字架にかけられる直前のこととして描かれています。それに対し、ヨハネ福音書では、イエス様の公生涯が始まったばかりの2章において伝えられています。
今回は、なぜヨハネ福音書が宮清めのお話を冒頭で伝えているのかということを視野に入れながら、本文を見ていきたいと思います。
宗教指導者たちからにらまれる
ルカ福音書2章41~52節には、12歳のイエス様が両親と一緒にエルサレム神殿に行ったことが伝えられています(「ルカ福音書を読む」第6回参照)。それも過越祭の時でした。想像になりますが、イエス様は公生涯に入られる前から、いろいろな祭に参加するために、エルサレム神殿に行っていたのではないかと思います。
つまり、礼拝の場所である神殿がどのようになっていたのかを、以前からご存じであったと思えるのです。神殿では、犠牲(いけにえ)としてささげるための動物が商人によって売られていました。また神殿では、シェケルという貨幣しか認められていなかったので(出エジプト記30章11~16節参照)、普段使用している貨幣をシェケルに両替する必要があり、そのための両替商人たちもいたのです。
イエス様は「私の父の家を商売の家としてはならない」と言われ、鞭を振るい、商人たちを追い出しました。
18節に「ユダヤ人たち」とありますが、恐らく神殿にいた宗教指導者たちを指しているのでしょう。彼らが、「こんなことをするからには、どんなしるしを私たちに見せるつもりか」とイエス様に問うたのです。
イエス様は、「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」とお答えになりました。宗教指導者たちは、「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、三日で建て直すと言うのか」と言いました。エルサレム神殿は実際に、ヘロデ大王による改築が始まってから46年が経過していたようです。
イエス様のこの時の言葉は、宗教指導者たちから相当な怒りを買ったようです。後にイエス様が裁判にかけられたときも、この言葉が「神を冒瀆(ぼうとく)するものだ」と証言されました(マタイ福音書26章60~61節、『ニューセンチュリー聖書注解 マルコによる福音書』405ページ参照)。
しかし、イエス様のこの答えには、ある意味があったのです。
2つの時代が交錯するヨハネ福音書
上記でお伝えしたことは、13~16節と18~20に記されていることです。地上におられたイエス様の言行です。それに対して、17節と21~22節は、後のヨハネ共同体における弟子たちの言行であると思われます。
ヨハネ福音書は、地上におられたイエス様の時代と、後のヨハネ共同体における時代という、2つの時代がしばしば交錯しながら進行していきます。今回の箇所は、それを大変よく具現しています。
17節は、弟子たちがイエス様の宮清めを見て、「あなたの家を思う熱情が私を食い尽くす」という旧約聖書の言葉を思い出したと記していますが、イエス様が商人たちを追い出しているときに、そんな悠長なことを考えていられるはずがありません。これは、ヨハネ共同体において、この出来事が語られたとき、または執筆の作業がなされたときに、旧約聖書の言葉が重ねられたということでしょう。
21~22節は、はっきりとした時間差のあるた文脈になっています。22節に「イエスが死者の中から復活されたとき」とありますが、この場面で用いられている「時(とき)」は原文ではホテという単語です。ホテには「~の後に」という意味もあり、この箇所は「イエス様が復活された瞬間」というよりも、「イエス様が復活された後に」という意味でしょう。
復活後にできた教会(ヨハネ共同体)において、「三日で建て直してみせる」というイエス様の言葉が、イエス様が死後3日でよみがえること、そしてそのことによって教会が建てられることを意味していたことを理解したということでしょう。
宮清めが指し示す新しい神殿
このようにして、教会がキリストの体である新しい神殿であることを、ヨハネ福音書は冒頭で伝えているのです。これはまた、この福音書が、ヨハネ共同体という教会を背景に書かれていることの宣言なのだと私は考えています。
宮清めにおいて、エルサレム神殿は後退し、教会という新しい神殿が建てられることが指し示され、そして、実際にその教会において、今日に至るまで福音の宣教がなされているのです。(続く)
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