今回は、2章23節~3章12節を読みます。
しるしを見て信じた人たち
2:23 過越祭の間、イエスがエルサレムにおられたとき、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。24 しかし、イエスご自身は、彼らを信用されなかった。それは、すべての人を知っておられ、25 人について誰からも証ししてもらう必要がなかったからである。イエスは、何が人の心の中にあるかをよく知っておられたのである。
ここは、3章への導入のための記事といわれています。イエス様は、エルサレム滞在中に力ある業を行ったようです。ヨハネ福音書は、そういった奇跡などを「しるし」と表現しています。人々は、イエス様のなさったしるしを見て信じました。
しかしそのことは、イエス様にとってはあまり好ましいものではなかったようです。イエス様が望むことは何だったのでしょうか。それは、次のニコデモとの会話によって明らかにされていきます。
ニコデモとの会話
3:1 さて、ファリサイ派の一人で、ニコデモと言う人がいた。ユダヤ人たちの指導者であった。2 この人が、夜イエスのもとに来て言った。「先生、私どもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、誰も行うことはできないからです。」
3 イエスは答えて言われた。「よくよく言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」 4 ニコデモは言った。「年を取った者が、どうして生まれることができましょう。もう一度、母の胎に入って生まれることができるでしょうか。」 5 イエスはお答えになった。「よくよく言っておく。誰でも水と霊とから生まれなければ、神の国に入ることはできない。
6 肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。7 『あなたがたは新たに生まれなければならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。8 風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」
9 するとニコデモは、「どうして、そんなことがありえましょうか」と言った。10 イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか。11 よくよく言っておく。私たちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたは私たちの証しを受け入れない。12 私が地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。
ニコデモという人は、4つの福音書の中でヨハネ福音書にしか登場していません。しかし、ヨハネ福音書では、この後の2回と合わせ、計3回登場します。このことは、ニコデモのお話を読む上で大事なことであると私は考えています。
ニコデモは、ファリサイ派の一人であり、ユダヤ人の指導者であると伝えられています。彼は、2度目に登場する7章50節の文脈によれば、最高法院の一員でした。つまり、当時のユダヤにおいては、社会的、宗教的に申し分のない人物であったわけです。
ニコデモは、夜にイエス様のところにやって来ます。最高法院の一員であったことなどは、ニコデモについてのポジティブな情報ですが、夜にやって来たというのはネガティブな情報でしょう。夜は闇を象徴していますが、「光と闇」というのは、ヨハネ福音書の重要なモチーフの一つです(1章5節参照)。
ニコデモは、夜の闇の中からイエス様の元にやって来たのです。ニコデモが生前のイエス様と会っていることを伝えているのはここだけですが、2回目に登場する7章51節ではイエス様を擁護しているように思えますし、3回目の19章39節では、なきがらとなったイエス様のところに没薬を塗りにやって来ています。
つまり、最初の対面ではイエス様の言われていることを理解していなかったニコデモが、福音書を通して変わっていき、なきがらとなったイエス様に没薬を塗るという所作において、「メシア告白」をしているというのが、私のニコデモのお話に対する読み方です。
「闇から光」に来たニコデモと「光から闇」へ出ていったユダ
夜の闇から、イエス様の光の下に来て、光の子とされていったのがニコデモです。反対に、イエス様の弟子でありながら、つまり光の下にいながら、闇の中に行ってしまうのがイスカリオテのユダです。
ユダは、最後の晩餐の席でイエス様からパン切れを受け取ると、夜の闇の中に出ていきます(13章26~30節参照)。そして、ユダはイエス様を売り渡します。ユダの行為をどう評価するかは別にして、ヨハネ福音書はニコデモとイスカリオテのユダを対比させていると私は捉えています。
闇の中から光の下に来た人物と、かたや光の下にいながら闇の中へ消えていった人物。光と闇をモチーフとしたこの福音書が、このようにして、登場人物にその役割を担わせているのではないかと、私は考えています。
イエス様が望んでいたこと
ニコデモは、エルサレムにおいてイエス様のしるしを見ていました。それが何であったかは、聖書には記されていません。しかし前述のように、そのしるしを見て、「しるしを行った」イエス様を信じた人たちが多くいました。ニコデモもその一人であったのでしょう。
そのため、イエス様の元に来たニコデモは、「神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、誰も行うことはできないからです」と言っています。ニコデモは、イエス様のところに行けば、「神の国」を見ることができると思ったのでしょう。
しかし、イエス様は「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」と答えられました。ニコデモは驚いて、「年を取った者が、どうして生まれることができましょう。もう一度、母の胎に入って生まれることができるでしょうか」と言います。
ニコデモは律法に通じる人であったでしょう。けれどもそれに固着していて、せいぜいイエス様のなさった不思議な業を見て、そこに神的なことを感じただけで、イエス様が新しい命(ギリシャ語でゾーエー)を与える方であることには気が付けなかったのです。
イエス様は、「誰でも水と霊とから生まれなければ、神の国に入ることはできない」と言われました。水と霊から生まれるということは、命の水を飲み、神の霊を吹き込まれることであって、神様から新しい命をいただくということです。
それはひっきょう、イエス様をメシアと告白することです。イエス様が人々に望んでいたことは、しるしを見て信ずることではなく、神様が与えられた独り子であるイエス様をメシアと信じて、新しく生まれることであったのです。
ニコデモは、この段階ではまだそのことが分からなかったようです。つまり、まだ闇の中に留まっていたのです。しかし前述したように、この後彼はヨハネ福音書にのみ2回登場します。そして、イエス様に対する態度が変わっていき、最後はメシア告白といえる行為を行うまでになるのです。(続く)
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