今回は、4章4~15節を読みます。
ヤコブの井戸
4 しかし、サマリアを通らねばならなかった。5 それで、イエスはヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにある、シカルというサマリアの町に来られた。6 そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。
7 サマリアの女が水を汲(く)みに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。8 弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた。9 すると、サマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女の私に、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際していなかったからである。
前回、イエス様がヨハネより多く弟子を作り、ファリサイ派の人々の耳にそれが入ったため、ユダヤからガリラヤに移られるという場面までをお伝えしました。イエス様はユダヤからガリラヤに行くために、サマリアを通っていきました。
ユダヤ人とサマリア人との間には、歴史的に見て大きな確執がありました。サマリア人は、もともとはイスラエル民族の12部族を構成する北の10部族でした。しかし、ソロモン王の後のレハベアム王の時に、この北の10部族はヤロブアム王の下で北王国イスラエルを樹立します。
北王国イスラエルは、やがてアッシリアに征服されます。そして、アッシリアによって混血化と宗教混交が行われ、サマリア人と呼ばれるようになります。彼らは、ヤハウェの神を信仰しながらも、他の神々も崇拝する混交した宗教を持っていました。そのため、ユダヤ人はサマリア人を外国人扱いし、彼らとは交際しませんでした。
サマリヤはユダヤとガリラヤの間に位置しており、ユダヤ人はサマリア人と接触しないため、わざとサマリアを避けて遠回りをすることもあったようです。しかし、イエス様はそのようにはなさいませんでした。サマリアのシカルという、ヤコブの井戸がある町を通って行かれたのです。
サマリア人はユダヤ人とは一線を画していましたが、12部族の祖であるヤコブはユダヤ人同様に尊敬していました。ヤコブは、彼に長子の権利を奪われた兄エサウに恨まれて殺害されそうになったため、バラン・アラム(後のサマリア)に逃避し、そこで家庭を築きます(創世記28章以下)。聖書には記述はないのですが、ヤコブは恐らくその時期にバラン・アラムに井戸を掘ったのでしょう。その井戸が、時代を経てもサマリア人たちに愛用されていたようです。
イエス様は、サマリア人の愛用している井戸のそばで正午に休息をしていたのです。そこに、サマリア人の女性が水を汲みにやって来ました。イエス様は喉に渇きを覚えていたのでしょう。この女性に「水を飲ませてください」と頼みました。ヨハネ福音書が伝える「正午」というのは、後にイエス様がピラトの前で十字架刑を宣告された時刻です(19章14~16節)。そしてイエス様は、「渇く」と言われて息を引き取られました(19章28~30節)。
またイエス様は、「私が来たのは、羊が命を得るため、しかも豊かに得るためである。私は良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」と言われました(10章10~11節)。これらのことから考えますと、私には4章のこの箇所は、どうもイエス様の十字架の出来事と無関係ではないように思えます。
イエス様が命を与えるためには、ご自身の命を捨てることが必要でした。十字架でご自身の命を捨てられたことが、私たちに命を与えることになりました。そして、十字架で命を捨てるときに「渇く」と言われたのです。つまり、イエス様が渇くことによって、私たちに命の水が与えられたのです(19章34節)。
次回お伝えしますが、イエス様はこのサマリアの女性に生ける水をお与えになります。私たちに永遠の命に至る水をくださるために、イエス様ご自身が渇かれたのだと私は思うのです。イエス様はサマリアの女性に「水を飲ませてください」と言われますが、女性からは「ユダヤ人のあなたがサマリア人の私に、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と、いささか皮肉めいた返答がなされます。サマリアの女性は婉曲(えんきょく)に断ったのだと思います。
イエス様とサマリアの女性の会話
10 イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水をください』と言ったのが誰であるかを知っていたならば、あなたのほうから願い出て、その人から生ける水をもらったことであろう。」 11 女は言った。「主よ、あなたは汲む物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生ける水を手にお入れになるのですか。12 あなたは、私たちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸を私たちに与え、彼自身も、その子どもや家畜も、この井戸から飲んだのです。」
13 イエスは答えて言われた。「この水を飲む者は誰でもまた渇く。14 しかし、私が与える水を飲む者は決して渇かない。私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る。」 15 女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここに汲みに来なくてもいいように、その水をください。」
10節から女性への語り方が変わります。イエス様はそれまでは、「水を飲ませてください」と、お願いをする立場で話していましたが、「あなたのほうから願い出て、その人から生ける水をもらったことであろう」と、まるで別の人物に語りかけられているような様子になります。
これは「頓呼(とんこ)法」と呼ばれる修辞法であるようです(萬澤正美著『ヨハネの修辞』218ページ)。女性はイエス様に対して、一人のユダヤ人男性としてではなく、敬意を持って接します。その態度は、しるしを見てイエス様の所に来たニコデモに似ていると思います。
ニコデモは敬意を持ってイエス様の所に来ましたが、イエス様の言うことを理解できませんでした。この女性も、イエス様の言われたことを理解していません。水を汲む物を持っていないし、この井戸を掘ったヤコブよりも偉いのかなどと言います。
イエス様はニコデモに、「誰でも水と霊とから生まれなければ、神の国に入ることはできない」と言われましたが、女性には「私が与える水を飲む者は決して渇かない。私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る」と言われます。いわば「霊的」な言葉です。
ニコデモはイエス様の言葉の後に、「どうして、そんなことがありえましょうか」と無理解な発言をして、その日は帰っていきますが、この女性はニコデモに比べるとイエス様の言葉を理解しつつあるように思えます。「主よ、渇くことがないように、また、ここに汲みに来なくてもいいように、その水をください」と、イエス様の言葉を受け入れる発言をしたのです。
この後、女性の心にはさらに変化が生じます。それについては次回お伝えします。(続く)
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