5千人の供食の話は4つの福音書全てにありますが、ヨハネ福音書には、その供食の話の後の6章後半で、パンについての説話が伝えられています。予定としては、今回から3回にわたって、その説話が書かれている26~59節を読みます。ここでは、4つの「よくよく言っておく」(原語では「アメーン・アメーン・レゴー・ヒューミン」、第16回参照)を基軸に、説話が繰り広げられています。今回は、そのうちの最初の2つが取り上げられている26~33節を読みます。
先祖の食べたマナ
26 イエスは答えて言われた。「よくよく言っておく。あなたがたが私を捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。27 朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもとどまって永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父なる神が、人の子を認証されたからである。」
28 そこで彼らが、「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と言うと、
29 イエスは答えて言われた。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」
30 彼らは言った。「それでは、私たちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。どのようなことをしてくださいますか。31 私たちの先祖は、荒れ野でマナを食べました。『天からのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてあるとおりです。」
1番目の「よくよく言っておく」で始まる説話です。理解しやすいように、イエス様とユダヤ人(彼ら)の会話をそれぞれに分けて表記しています。
イエス様が5千人に食事を与えたのは、ティベリアスの近辺であったと思われます。そこから弟子たちとカファルナウムに渡り、ユダヤ人たちも一行を追っていったということを前回お伝えしました。イエス様はカファルナウムの会堂で教えておられたのですが(59節)、そこで議論が繰り広げられます。
イエス様は、ユダヤ人たちが自分の後を追ってきたのは「しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ」と言われました。ユダヤ人にとって、出エジプトの出来事は民族の誇りです。ダビデによるイスラエル建国後も、そのことは繰返し語り継がれてきたのでしょう。出エジプト記、レビ記、民数記、申命記の他に、詩編やネヘミヤ記、ホセア書に、出エジプトについての記述があることを見れば、そのことは明白です。
その中でもとりわけ、天から降ってきた食べ物であるマナを、安息日を除いて毎日集め、食べていたことは、ユダヤ人の間では語り草になっていました。マナの出来事は、モーセというカリスマを通して行われた、いわば「メシア的行為」であったのです。ユダヤ人たちは、そのマナを降らせる行為を、パンを増やし与えたイエス様に求めていたのです。
しかし、ユダヤ人たちが求めていたものは、マナという朽ちる食べ物でした。マナを食べた人たちは、いずれは亡くなってしまいます。ユダヤ人たちは、朽ちる食べ物のためにイエス様を探していたのです。
しかしイエス様は、「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもとどまって永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」(27節)と言われました。この「とどまる」は、ヨハネ福音書に特徴的な「メノー」という単語です(第3回参照)。15章5節の「私はぶどうの木、あなたがたはその枝である。人が私につながっており、私もその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」における「つながっている」もメノーで、ここでの「とどまる」と同じです。
「いつまでもとどまって永遠の命に至る食べ物」とは、「いつまでもつながって永遠の命に至る食べ物」ということなのです。それはイエス様ご自身ということであり、私たちがイエス様とつながり、イエス様が私たちとつながってくださっている状態のことです。それこそが、イエス様が私たちに与えてくださるパンなのです。
ユダヤ人たちは、そのことを理解していません。ですから「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」(28節)というとんちんかんな問いを、イエス様に対して出しているのです。イエス様はきっぱりと、「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である」(29節)とお答えになりました。
神様のお遣わしになった者、すなわちイエス様を信じることこそが、イエス様が私たちにつながり、私たちがイエス様につながることなのです。そしてそれが、それを食べてもいつかは朽ちてしまうマナに代わる新しい食べ物、すなわちイエス様が与える朽ちない食べ物を得ることなのです。
しかしユダヤ人たちは、自分たちの歴史を、聖書を基に立証しようとします。そして、同じようなことをするならばあなたを信じようと言ったのです(30~31節)。パンを増やしたイエス様に対して、「マナを降らせてみなさい」と言ったということだと思います。
朽ちないまことのパン
32 すると、イエスは言われた。「よくよく言っておく。モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではない。私の父が天からのまことのパンをお与えになる。33 神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」
2番目の「よくよく言っておく」が語られている部分です。今回はここで終わりにしますが、この2番目の「よくよく言っておく」は、最初の「よくよく言っておく」から2番目までの部分のまとめであり、かつ次の部分を展開していく端緒の言葉にもなっていますので、次回も再掲します。
この導入句に続く本題の冒頭は、モーセ「が」となっていますが、これは伊吹雄氏(『ヨハネ福音書注解Ⅱ』109ページ)や田川建三氏(『新約聖書 本文の訳』230ページ)の個人訳のように、モーセ「は」と翻訳した方がすっきりします。「モーセは天からのパンをあなた方に与えたのではない」(田川訳)ということです。
つまり、モーセを通して与えられたマナは、天から降ってきたものではあるが、それは天的な食べ物ではなく、朽ちる食べ物であり、私の父(神様)は、朽ちないまことのパンをあなたがたにお与えになる(現在形)ということです。
イエス様の説話はさらに展開され、いよいよ、世に命を与えるまことのパンとは何であるのかということが明らかにされることになります。(続く)
◇