今回は、6章34~51節を読みます。今回も前回同様、イエス様とユダヤ人たちの言葉を分けて表記します。ここでも、イエス様の言葉として大事なものであることを示している「よくよく言っておく」という言葉が伝えられています(47節)。
34そこで、彼らが、「主よ、そのパンをいつも私たちにください」と言うと、
35 イエスは言われた。「私が命のパンである。私のもとに来る者は決して飢えることがなく、私を信じる者は決して渇くことがない。36 しかし、前にも言ったように、あなたがたは私を見ているのに、信じない。37 父が私にお与えになる人は皆、私のもとに来る。私のもとに来る人を、私は決して追い出さない。38 私が天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、私をお遣わしになった方の御心を行うためである。39 私をお遣わしになった方の御心とは、私に与えてくださった人を、私が一人も失うことなく、終わりの日に復活させることである。40 私の父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、私がその人を終わりの日に復活させることだからである。」
41 ユダヤ人たちは、イエスが「私は天から降って来たパンである」と言われたので、イエスのことでつぶやいて、42 こう言った。「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、『私は天から降って来た』などと言うのか。」
43 イエスは答えて言われた。「つぶやき合うのはやめなさい。44 私をお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、誰も私のもとに来ることはできない。私はその人を終わりの日に復活させる。45 預言者の書に、『彼らは皆、神に教えられる』と書いてある。父から聞いて学んだ者は皆、私のもとに来る。46 父を見た者は一人もいない。神のもとから来た者だけが父を見たのである。
47 よくよく言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。48 私は命のパンである。49 あなたがたの先祖は荒れ野でマナを食べたが、死んでしまった。50 しかし、これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。51 私は、天から降って来た生けるパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。私が与えるパンは、世を生かすために与える私の肉である。」
聖書の集中構造分析
私は、聖書の集中構造分析を時々行います。集中構造分析とは、旧約聖書でも新約聖書でも行えるものですが、聖書の中の一定のまとまりを、中核を持つ対称形のものとして読み取る手法です。
聖書を読んでいますと、類似した言葉を見いだすことがあります。例えば、創世記4章ではカインとアベルの話が伝えられますが、1節に「人は妻エバを知った」、17節に「カインは妻を知った」とあり、この2つは対称形の言葉として読み取れます。こういった場合は、大概といっていいほど、集中構造(中核を持つ対称形の構造)になっていることを確認できます。実際にその間の1~16節を分析してみますと、9節bを中核(I)とする、「ABCDEFGH(I)H´G´F´E´D´C´B´A´」という対称形の構造になっていることが分かります。
別のコラム「コヘレト書を読む」の第9回でこのことを取り上げていますので、詳しくはそれをお読みいただければと思います。他にも、これまで執筆したコラムでは、コヘレト書3章1~17節やフィレモン書の集中構造分析を行っています。
こうした文章構造は、聖書だけに特別なことではありません。例えば、中国の漢詩には「起承転結」という文章構造があります。聖書には、集中構造という文章構造が、旧約にも新約にも見られるということです。
書籍では、森彬(あきら)著『聖書の集中構造(上)旧約編』『聖書の集中構造(下)新約編』『新・聖書の集中構造』『ルカ福音書の集中構造』で詳しく書かれています。
集中構造分析を行うことのメリットは、文章の中核を見いだすことにより、その中で一番大切なメッセージを取り出すことができることです。ちなみに、創世記4章1~17節の中核は、「彼は言った。『知りません。私は弟の番人でしょうか』」です。この箇所の中心メッセージは、カインがアベルを殺害したことではなく、神様に対して、殺害したことについてしらを切ったことなのではないか、ということに気付かされます。
なお、聖書の集中構造分析は、分析者によってさまざまな差異が出てくることもお伝えしておきたいと思います。
6章22~59節の集中構造分析
前回のコラムを書き終わり、続く6章34~51節を読む中で、35節と48節に「私は命のパンである」という同じ言葉が出てくることに気付かされました。そこで、この箇所は集中構造になっている可能性があると思い、分析してみました。35節と48節の2箇所から中央部に向かってみますと、「私のもとに来る」「終わりの日に復活させる」「私は天から降って来た」という言葉も、対称形になっていることが分かります。
そして、42節前半の「こう言った。『これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている』」が、この箇所の中核であることが分かるのです。そうしますと、26~51節は、以下のような小テーマを持つ集中構造の文章なのではないかと考えられます。
A「パンとマナ」26~34節
B「私は命のパンである」35節前半
C「私のもとに来る者(信じる者)」35節後半~37節
D「終りの日に復活させる」38~39節
E「『私は天から降って来た』と言ったことについてつぶやく」41節
F(中核)「こう言った。『これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている』」42節前半
E´「『私は天から降って来た』と言ったことについてつぶやく」42節後半~43節
D´「終りの日に復活させる」44節
C´「私のもとに来るもの(信じる者)」45~47節
B´「私は命のパンである」48節
A´「パンとマナ」49~51節
なお、26~51節の外側となる22~25節と52~59節については、「聖餐」「カファルナウム」というような言葉でのくくりができるのではないかと思いますが、それ以上の詳細な分析は行いません。
「私は命のパンである」に対するユダヤ人たちの言葉
このような分析を行うことの目的は、前述したように、この箇所の中心メッセージを引き出すことです。22~59節は「パンの説話」と呼ばれる箇所ですが、先の集中構造分析に基づけば、その中心は、ユダヤ人たちが「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている」と言ったことなのです。そしてその言葉が、イエス様が「私は命のパンである」と2度言われたことに対する彼らの態度なのです。
ユダヤ人たちとは誰か
さて、ここで言われている「ユダヤ人たち」とは、いったい誰のことを指しているのでしょうか。それを述べる前に、ヨハネ福音書の執筆目的について、もう一度確認しておきたいと思います。第1回でお伝えしたように、それは20章31節の「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、①イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、②信じて、イエスの名によって命を得るためである」です。
ヨハネ福音書は、1~4章においては、イエス様をメシアと告白した人たち、あるいは今後そこに向かうであろう人たちについて伝えていました。つまり、1つ目の執筆目的のために、読者がそれに引き込まれる人たちが登場していたのです。しかし、5章からはユダヤ人たちが登場してきて、イエス様に対して反論を述べる場面が続きます。
私はこのことについて、「ユダヤ人たち」というのがイエス様を既に信じた人たちを象徴しているのではないかと考えるようになりました。イエス様を信じてもさまざまなつぶやきをしてしまうのです。それが今日においては、教会に集う人たちです。それは、イエス様をメシアと告白して永遠の命を頂いただいても、その永遠の命から離れていくありように思えるのです。それに対してイエス様は、「つぶやき合うのはやめなさい」と、私たちを永遠の命の方向に引き戻してくださるのです。私はそれが、この福音書の2つ目の執筆目的である「信じて、イエスの名によって命を得るため」を達成することになっていくのだと考えています。
今回の集中構造分析によって私が知ったことは、「私が命のパンである」と言われるイエス様に対して、「これはヨセフの息子のイエスではないか」と言ってイエス様から離れていこうとするユダヤ人たち、つまり教会に集う私たちに対して、「つぶやき合うのはやめなさい」と言って、命を得させ続けてくださるイエス様がいらっしゃるということです。(続く)
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