今回は、6章59~71節を読みます。
カファルナウムの会堂
59 これらは、イエスがカファルナウムの会堂で教えていたときに話されたことである。
カファルナウムは、ガリラヤ地方では中心となっていた町なのでしょう。イエス様は、宣教を開始されたとき、「ナザレを去って、ゼブルンとナフタリとの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた」(マタイ福音書4章13節)とあります。カファルナウムは、イエス様にとってガリラヤでの宣教の拠点でした。
イエス様はこのガリラヤ湖畔の町で、漁師たちを弟子にします。また、徴税人のレビ(マタイ)も、この町の徴税所にいたところを召されて弟子とされました。フィリポは、隣町のベトサイダの出身でした(ヨハネ福音書1章44節)。弟子たちにとっても、カファルナウムまたは近隣の町は出身地であったのです。つまり、イエス様の一行にとって、カファルナウムはホームグラウンドであったといえましょう。
ティベリアス湖畔の山において、5千人にパンの供食を行ったイエス様と弟子たちは、ガリラヤ湖を移動してカファルナウムに戻りました。そして、会堂(シナゴーグ)において「パンの説話」がなされたのです。昨年連載したコラム「ルカ福音書を読む」の第13回でお伝えしましたが、この会堂は、イエス様に僕(しもべ)の病気を癒やしてもらったローマの百人隊長によって建てられたものです(ルカ福音書7章4~5節)。
イエス様につまずいた弟子たち
60 弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。「これはひどい話だ。誰が、こんなことを聞いていられようか。」 61 イエスは、弟子たちがこうつぶやいているのに気付いて言われた。「あなたがたはこのことにつまずくのか。62 それでは、人の子が元いた所に上るのを見たら、どうなるのか。63 命を与えるのは霊である。肉は何の役にも立たない。私があなたがたに話した言葉は霊であり、命である。
イエス様が話されたパンの説話のうち、聖餐式のことについて、弟子たちがつぶやき始めます。この弟子たちというのは、12弟子ではなく、その他の弟子たちです。イエス様が、聖餐式においてご自身の肉を食べたり血を飲んだりすることを教えたため、そのようなことは考えられないと言ったのです。
それに対してイエス様は、「人の子が元いた所に上るのを見たら、どうなるのか」と言われました。これは、イエス様が十字架の死を経て復活され、天に昇られること(「高挙」といいます)を意味しています。聖餐式のパンとぶどう酒は、高挙されたイエス・キリストのものであり、それは霊的なものなのです。
弟子たちはそれを誤解していたため、「ひどい話だ」となってしまったのですが、イエス様は「命を与えるのは霊である。肉は何の役にも立たない」と一蹴されます。
ユダの登場
64 しかし、あなたがたの中には信じない者がいる。」 イエスは最初から、信じない者が誰であるか、また、ご自分を裏切る者が誰であるかを知っておられたのである。65 そして、言われた。 「こういうわけで、私はあなたがたに、『父が与えてくださった者でなければ、誰も私のもとに来ることはできない』と言ったのだ。」
「ご自分を裏切る者が誰であるかを知っておられた」とすることによって、ヨハネ福音書において初めて、イスカリオテのユダが登場します。ここで、ヨハネ福音書がイスカリオテのユダをどう伝えているかについて、私の考えを述べておきたいと思います。
共観福音書は、イスカリオテのユダについて、その裏切りにスポットを当てているように思えます。そして、マタイ福音書と、ルカ福音書を継ぐ使徒言行録は、その最期についても伝えています。しかし、いずれも起こった事柄について淡々と伝えているものであり、ユダという人物の意味を深く探ろうとはしていないように思えます。
それに対してヨハネ福音書は、この福音書が持つ幾つかのモチーフの一つを、ユダを通して示そうとしているように思えます。しかも、ユダ一人を対象としているのではなく、もう一人の人物とペアにすることによって、そのモチーフを描こうとしているように思えるのです。
そのモチーフとは、「光と闇」(1章5節)であり、ペアとなっている相手はニコデモです。第6回でお伝えしたように、ニコデモは夜にイエス様のもとにやって来ます。つまり、闇の中から光であるイエス様のところにやって来たのです。
彼は、その晩はイエス様をメシアと受け入れることはしませんでした。しかし、ヨハネ福音書を通して計3回登場し、最後は、イエス様が十字架で息を引き取られたときに埋葬にやって来ます(19章39節)。つまり、ニコデモは闇の中からやって来て、イエス様の死後には、その光の中を歩むように導かれているのです。
これに対し、ヨハネ福音書の伝えるイスカリオテのユダは、ニコデモとは全く逆の歩みをしています。ユダは、光であるイエス様の下で12弟子の一人として歩んでいました。しかしある晩、夜の闇の中へこつ然と消え去り(13章30節)、その後はイエス様を裏切る行為へと突き進んでいきます。
闇の中から光へやって来たニコデモと、光から闇の中へ消えていったユダという対称的な図式ができていると思います。私は、ニコデモとイスカリオテのユダという2人の人物の生きざまを通して、ヨハネ福音書が、それ自身が持つ「光と闇」というモチーフを描いていると捉えています。
12弟子
66 このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。67 そこで、イエスは十二人に、「あなたがたも去ろうとするのか」と言われた。68 シモン・ペトロが答えた。「主よ、私たちは誰のところへ行きましょう。永遠の命の言葉を持っておられるのは、あなたです。69 あなたこそ神の聖者であると、私たちは信じ、また知っています。」 70 すると、イエスは言われた。「あなたがた十二人は、私が選んだのではないか。ところが、その中の一人は悪魔だ。」 71 イスカリオテのシモンの子ユダのことを言われたのである。このユダは、十二人の一人でありながら、イエスを裏切ろうとしていた。
結局、12弟子以外の弟子たちの多くは、イエス様のもとから去ることになります。さてここで、ヨハネ福音書では初めて、12人という言葉が出てきます。12弟子について、12人の名前を挙げることはせず、その存在を明らかにしているのです。そして、イエス様はその12弟子に対し、「あなたがたも去ろうとするのか」と問いかけます。
筆頭者ペトロ
ここで、ペトロが12弟子の筆頭者として、「主よ、私たちは誰のところへ行きましょう。永遠の命の言葉を持っておられるのは、あなたです。あなたこそ神の聖者であると、私たちは信じ、また知っています」と答えます。これは、マタイ福音書が伝える「あなたはメシア、生ける神の子です」(16章16節)というペテロのメシア告白と同じものです。
ヨハネ福音書では、ペトロは兄アンデレを介して最初にイエス様に会ったときに、イエス様から「ケファ(岩)と呼ぶことにする」と言われていますが、ペトロ自身の直接のメシア告白は記載されていません。パンの説話に続くこの時の言葉が、メシア告白であったといってよいでしょう。ペトロが12弟子の筆頭者とされているのは、年齢(年齢であればアンデレの方が上であったはず)などによるものではなく、その信仰告白によってそうされているのだと思います。(続く)
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