今回は、7章1~13節を読みます。
ガリラヤにとどまられたイエス様
1 その後、イエスはガリラヤを巡っておられた。ユダヤ人が殺そうと狙っていたので、ユダヤを巡ろうとはされなかった。
2 時に、ユダヤ人の仮庵(かりいお)祭が近づいていた。3 イエスの兄弟たちが言った。「ここをたってユダヤに行き、あなたのしている業を弟子たちにも見せてやりなさい。4 公に知られようとしながら、ひそかに行動するような人はいない。こういうことをしているからには、自分を世に現しなさい。」 5 兄弟たちも、イエスを信じていなかったのである。
6 そこで、イエスは言われた。「私の時はまだ来ていない。しかし、あなたがたの時はいつも備わっている。7 世はあなたがたを憎むことはできないが、私を憎んでいる。私が、世の行っている業は悪いと証ししているからだ。8 あなたがたは祭りに上って行くがよい。私はこの祭りには上って行かない。私の時がまだ満ちていないからである。」 9 こう言って、イエスはガリラヤにとどまられた。
前回、ガリラヤのカファルナウムでの出来事によって、イエス様から弟子たちが離れ、12弟子だけがイエス様のもとに残ったことをお伝えしました。今回お伝えするのは、その続きの出来事です。イエス様は引き続きガリラヤ地方を巡って教えを広めていました。
ここでの「巡る」(ペリパテオー)という言葉は、「とどまる」(メノー)と同義的です。9節の「ガリラヤにとどまられた」ではメノーが使われていますが、それとほぼ同じ意味でしょう。つまり、1~9節全体は、「イエス様はガリラヤにとどまっておられた」ということを伝えているのではないかと思います。
「メノー」は、ヨハネ福音書ではとても大切な言葉です。この福音書全体を通して、イエス様がこの世にとどまられたのは、イエス様の愛に基づくことであったことを伝えています。その福音書において、イエス様がガリラヤにとどまられたと書かれていることは、興味深いことです。イエス様は、故郷ガリラヤを愛しておられたのだと思います。
ガリラヤの風かおる丘で
ひとびとに話された
恵みのみことばを
わたしにも聞かせてください(『讃美歌21』57番「ガリラヤの風かおる丘で」)
このような、ガリラヤを舞台として活動されるイエス様について歌われている賛美歌も数多いことと思います。そして、ガリラヤで語られたイエス様の多くの言葉が、今も、私たちを生かす聖書と、私たちの心の中で生きているのです。
私は一度だけイスラエルを旅行したことがありますが、主な行先はエルサレムとガリラヤでした。正直申し上げまして、エルサレムにはあまり魅力を感じませんでした。確かに、さまざまなことを記念した大きな教会などがたくさんありましたが、自分にしっくりするものがなかったのです。
けれども、ガリラヤは良かったです。ガリラヤ湖の周囲は素朴で、イエス様の時代から変わっていないのではないかと思える、のどかさが残っていました。カファルナウムの町は、残念ながら今はありませんが、ナザレやカナの町は今も存続しています。
これからイスラエル旅行を考えているという人は、ぜひガリラヤに行ってみてください。そして、イエス様がとどまられて、御言葉をお語りになられた、その息遣いを、ガリラヤで感じることができればよいと思います。
仮庵祭
イエス様が5千人にパンと魚を分け与えたのは、過越祭が近づいていた時のことですが、7章は、仮庵祭が近づいていた時のこととして伝えられています。過越祭も仮庵祭も、ユダヤ人の代表的な祭り(礼拝)で、両方とも出エジプトの出来事を記念したものです。
過越祭がエジプトを脱出したことを記念するものであるのに対し、仮庵祭は出エジプトの道程において、ユダヤ人たちが荒野を仮庵(テント)で移動していたことを記念するものです。過越祭が春の行事であるのに対し、仮庵祭は秋に行われる8日間の行事です。この8日間、エルサレムの神殿や街路は、仮庵で埋め尽くされ、人々はそこで生活をして出エジプトでの荒野の生活をしのぶのです。
祭りに行くことを勧める弟たち
イエス様の弟たち(聖書を読む限りイエス様は長男です)は、イエス様にエルサレムで行われるこの祭りに行くように勧めました。これは、イエス様のなさるしるしを、祭りのために上京した多くの人たちに見てもらいたいという思いがあったからです。しかし、それはイエス様のなさるしるしを見て、それ故に信じた人たちと同じです。
弟たちは、イエス様がひそかに行動することを望んでいませんでした。華々しく行動してほしかったのです。自分たちの兄に、多くの人たちの前でしるしを行ってほしかったのです。しかし、イエス様は弟たちの要求を拒否されました。
ひそかに祭りに行くイエス様
10 しかし、兄弟たちが祭りに上って行った後で、イエスご自身も、人目を避け、ひそかに上って行かれた。11 祭りのときユダヤ人たちは、「あの男はどこにいるのか」と言って、イエスを捜していた。12 群衆の間では、イエスのことがいろいろとささやかれていた。「良い人だ」と言う者もいれば、「いや、群衆を惑わしている」と言う者もいた。13 しかし、ユダヤ人たちを恐れて、イエスについて公然と語る者はいなかった。
4節では、「公に知られようとしながら、ひそかに(クリュープトー)行動するような人はいない。こういうことをしているからには、自分を世に現しなさい」と、イエス様が「ひそかに」行動することを弟たちが疎んじて、公にするように望んでいたことが伝えられていました。
けれども10節では、イエス様が「ひそかに(クリュープトー)上って行った」と、エルサレムで行われる仮庵祭に行ったことが伝えられています。弟たちから、自分自身を公にすることを求められていたにもかかわらず、イエス様はひそかに行動されているのです。これは、イエス様が進む道が十字架への道であることを意味しているのでしょう。十字架への道は、華々しいものではないのです。(続く)
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