今回は、7章14~24節を読みます。
私をお遣わしになった方の教え
14 祭りもすでに半ばになった頃、イエスは神殿の境内に上って行き、教え始められた。15 ユダヤ人たちが驚いて、「この人は、学問をしたわけでもないのに、どうして聖書をこんなによく知っているのだろう」と言うと、16 イエスは答えて言われた。「私の教えは、私のものではなく、私をお遣わしになった方のものである。17 この方の御心を行おうとする者は、私の教えが神から出たものか、私が勝手に話しているのか、分かるはずである。18 自分勝手に話す者は、自分の栄光を求める。しかし、自分をお遣わしになった方の栄光を求める者は真実な人であり、その人には不正がない。
前回お伝えしましたように、イエス様は、仮庵(かりいお)祭の行われているエルサレムに、ひそかに上って行かれました。それは、イエス様を殺そうとしていた人たちから身を隠すためであり、いわば十字架への道が、そこで示されていたのだと思えます。
しかし、イエス様は8日間行われる仮庵祭の半ばの日に、エルサレム神殿の境内で公然と教えを語り始めました。イエス様の教えは権威に満ちていました。それは人々を威圧する権威によるものではなく、自由を与えるものでした。
マルコ福音書1章22節は、イエス様の教えについて「人々はその教えに驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者のようにお教えになったからである」と伝えていますが、その権威とは、律法学者のように律法の狭義な理解と押し付けで人々から自由を奪うものではなく、人々に自由を与える目的の、神様からのものであったのです(「【書評】橋爪大三郎著『権力』 聖書を『権力』という視点で読み解くのに有用な書」参照)。
しかし、エルサレム神殿でイエス様の教えを聞いていたユダヤ人たちは、「この人は、学問をしていたわけではないのに、どうして聖書をこんなによく知っているのだろう」と不思議がりました。人々は、イエス様がナザレの出身で(1章46節)、ヨセフの息子であること(6章42節)を知っていたのです。
エルサレムであるならば、高度な教えを持つ、高度なラビから学べる学校があったと思います。しかし、ガリラヤのナザレで育ち、父のもとで大工をしていた(マタイ福音書13章55節)イエス様が、聖書についての高度な学びをしたとは思えなかったのでしょう。ですからユダヤ人たちは、首をかしげてしまったのです。
それに対してイエス様は、自分は神様から遣わされた者であり、自分が伝えている教えが、神様からのものであることを強調されています。エルサレムで高度な教えを高度なラビから学んだわけではないけれども、私の教えは神様ご自身からのものであると言うのです。
前述しましたように、神様は権威を持って自由を与える方です。イスラエルの民がエジプトを脱出するときには、権威を持ってファラオと対峙し、イスラエルの民をエジプトから去らせました。それは、イスラエルの民に自由を与えるものでした。神様の権威は自由を与えます。イエス様の教えは神様からのものであったため、人々に自由を与えるものであったのです。
エジプトを脱出したイスラエルの民が荒野を進むとき、神様の栄光が、昼は雲の柱として、夜は火の柱として、民を守りました。仮庵祭ではそのことを覚えて、夕方になるとエルサレム神殿の「婦人の庭」と呼ばれるところに火がともされていました。これは、神様の栄光がそこに顕現されているということなのです。
イエス様が語られたのが、その仮庵祭であったことに大きな意味があると思います。神様の栄光が顕現されていたところで、「自分勝手に話す者は、自分の栄光を求める。しかし、自分をお遣わしになった方の栄光を求める者は真実な人であり、その人には不正がない」と語られたのです。
人間は、自己の栄光を求めることからは完全に自由になることはできません。自己の栄光の全く存在しない神様の栄光を求めることは、イエス様にのみ可能なのです(伊吹雄著『ヨハネ福音書注解Ⅱ』167ページ)。仮庵祭において、神様の栄光が顕現されているところで、イエス様が、ご自分をお遣わしになった神様の栄光を現わしているということ。それは出エジプトの出来事を再現していることであり、神様がイスラエルの民に自由を与えたことの再現であると私は思います。
殺そうと狙われるイエス様
19 モーセはあなたがたに律法を与えたではないか。ところが、あなたがたは誰もその律法を守らない。なぜ、私を殺そうとするのか。」 20 群衆が答えた。「あなたは悪霊に取りつかれている。誰があなたを殺そうというのか。」
前回お伝えした7章1節には、「ユダヤ人が殺そうと狙っていたので、ユダヤを巡ろうとはされなかった」とあり、そのためイエス様はガリラヤを巡っていたのでした。なぜ殺そうと狙われたのかというと、イエス様がご自身を神から遣わされた者として、ご自身を神と等しいものとしていたからです(5章18節)。
イエス様は今回、再びエルサレムに来て、ご自身が神から遣わされた者であることを語り出しているのです。それは当然、ユダヤ人たちから付け狙われることになる行為でした。ですから、「なぜ、私を殺そうとするのか」と問うているのです。モーセを通して神様から与えられた十戒には、「殺してはならない」とあり、殺害するために付け狙う行為は、当然その掟(おきて)に反することになります。
この問いについて、群衆が答えることになります。群衆は、ユダヤ人指導者たちが行おうとしているイエス様の殺害について、そのいきさつを知りません。指導者(政治家)のやっていることを群衆(国民)が知らないということは、いつの世にもあることなのかもしれません。
人を生かす律法
21 イエスは答えて言われた。「私が一つの業を行ったというので、あなたがたは皆驚いている。22 しかし、モーセはあなたがたに割礼を命じた——もっとも、これはモーセからではなく、族長たちから始まったのだが——。だから、あなたがたは安息日にも人に割礼を施している。23 モーセの律法を破らないようにと、人は安息日であっても割礼を受けるのに、私が安息日に人の全身を治してやったからといって腹を立てるのか。24 うわべで裁くのをやめ、正しい裁きをしなさい。」
群衆たちが実情を知らずに発言しているのに対して、イエス様は「事情をしっかり知りなさい」と言われているように思えます。それは、モーセを通して与えられた律法についても、同じことが言えると思います。ファリサイ派の人などは、安息日順守の掟について、律法を文字通りに守るように民衆を指導していたのかもしれません。
しかし、律法の本来の目的は、「人を生かす」ことです。イエス様はそのことを、割礼を例にして話されています。安息日に割礼を施すことが許されるのなら、安息日に人を癒やすことも許されるだろうと言うのです。これは、5章で伝えられている、ベトザタの池のほとりにいた全身麻痺(まひ)の人の癒やしについてのことを言っているのではないかと思います。
律法は、そのうわべを読んで人を裁くものではなく、神様がその掟を通して人をどのように生かそうとしているかを、知るべきものなのです。(続く)
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