今回は、7章31~36節と45~52節を読みます。37~44節は次回お伝えしたいと思います。
下役たち
31 しかし、群衆の中にはイエスを信じる者が大勢いて、「メシアが来られても、この人よりも多くのしるしをなさるだろうか」と言った。32 ファリサイ派の人々は、群衆がイエスについてこのようにささやいているのを耳にした。祭司長たちとファリサイ派の人々は、イエスを捕らえるために下役たちを遣わした。33 そこで、イエスは言われた。「今しばらく、私はあなたがたと共にいる。それから、私を遣わした方のもとへ帰る。34 あなたがたは、私を捜しても、見つけることがない。私のいる所に、あなたがたは来ることができない。」 35 すると、ユダヤ人たちは互いに言った。「私たちが見つけることはないとは、この人はどこへ行くつもりだろう。ギリシア人の間に離散しているユダヤ人のところへ行って、ギリシア人に教えるとでもいうのか。36 『あなたがたは、私を捜しても、見つけることがない。私のいる所に、あなたがたは来ることができない』と彼は言ったが、その言葉はどういう意味なのか。」
45 さて、祭司長たちやファリサイ派の人々は、下役たちが戻って来たとき、「どうして、あの男を連れて来なかったのか」と言った。46 下役たちは、「今まで、あの人のように話した人はいません」と答えた。47 すると、ファリサイ派の人々は言った。「お前たちまでも惑わされたのか。48 議員やファリサイ派の人々の中に、あの男を信じた者がいるだろうか。49 だが、律法を知らないこの群衆は、呪われている。」
イエス様は、自分が神から遣わされた者であると言ったために、ユダヤ人たちから付け狙われるようになったことを、前回までにお伝えしてきました。そうした状況にあるにもかかわらず、「イエスを信じる者が大勢いて」(31節)とあるように、群衆の中にはイエスを信じる人が多数いたことが伝えられています。
しかし、彼らの信仰は、「メシアが来られても、この人よりも多くのしるしをなさるだろうか」というものでした。つまり、イエス様のなさっていた数多くのしるしを見て、それ故にイエス様を信じていたのです。この信仰は、ヨハネ福音書が大切なものとして伝えている「イエスはメシアである」というものではなく、脆弱(ぜいじゃく)なものでした。
それでも支配者層であるファリサイ派の人々の中には、群衆の一部がイエス様についてそのように言っていることに危機感を抱く者たちがあったようです。そこで、イエス様を捕えるために下役たちを遣わしました。
しかしながら、この下役たちは逆にイエス様の言葉に圧倒されてしまったようです。イエス様の言葉は、前回お伝えしたような、イエス様の「守られていた中間の時」が終わり、十字架と復活と高挙という「この世の時」が間もなく始まることを、イエス様ご自身が明らかにしたものであろうと思います。それは、イエス様に会うことはできないという「時」の始まりを意味するものでもあったのです。
この言葉を聞いた下役たちは、「今まで、あの人のように話した人はいません」と感服してしまったのです。それでイエス様を捕えることはせずに、手ぶらで祭司長たちやファリサイ派の人々の所に帰りました(45~46節)。これに対し、ファリサイ派の人々は危機感を持って、「お前たちまでも惑わされたのか」と言ったのです。
ここまで読むと、この下役たちはイエス様についた人たちであって、いわばイエス様に対してメシア告白をする人たちとなっていくようにさえ思えます。しかし、ヨハネ福音書を読み進めていくと、このファリサイ派の下役たちがイエス様を裏切ったイスカリオテのユダに引き連れられて、十字架につけるためにイエス様を捕えに行くことになるのです(18章1~3節)。
私は、下役たちの変遷の様子は、ヨハネ福音書によって伝えられている独特なものであると考えています。それはこの後に、3章に続いて2度目に登場するニコデモとの関連性において、明らかにされているのだろうと捉えています。
ニコデモとイスカリオテのユダ
50 彼らの中の一人で、以前イエスを訪ねたことのあるニコデモが言った。51 「我々の律法によれば、まず本人から事情を聞き、何をしたかを確かめたうえでなければ、判決を下してはならないことになっているではないか。」 53 彼らは答えて言った。「あなたもガリラヤ出身なのか。よく調べてみなさい。ガリラヤからは預言者が出ないことが分かる。」
ヨハネ福音書のモチーフの一つが「光と闇」であることは、このコラムで幾度かお伝えしてきました。闇であるこの世に、神様が独り子であるイエス様を遣わしてくださったことは、光の出来事でありました。1章9節の「まことの光があった。その光は世に来て、すべての人を照らすのである」は、そのことを的確に表していると思います。
けれども、この「光と闇」を、ヨハネ福音書は登場人物によっても明かしているというのが、少々深読みし過ぎに思われてしまうかもしれませんが、私の持論です。それがまさにニコデモとイスカリオテのユダの、この福音書における独特な登場の仕方だと思うのです。
ニコデモは、他の福音書にはその影さえも見いだすことができません。ヨハネ福音書だけに登場し、しかもその数は3度です。このニコデモが、最初は夜の闇の中からイエス様に会いに来たというところが、大切なくだりであると思います(3章1~12節)。その時は、イエス様が「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」と言われたことがよく分からず、彼は場面から姿を消しています。
そのニコデモが、今回の箇所で再び登場しているのです。場面は、ファリサイ派の人々が、下役たちに対して「お前たちまでも惑わされたのか」と言い、「議員やファリサイ派の人々の中に、あの男を信じた者がいるだろうか」と、自分たちの信心のみが正統であることを強調しているところです。
この場面で、議員でありファリサイ派であるニコデモが、申命記1章16~17節の「同胞の間に入ってよく聞きなさい。同胞とのことであれ、寄留者とのことであれ、それぞれの間を正しく裁きいなさい。裁判において偏りがあってはならない」を根拠に、イエス様を擁護する発言を行ったのです。
これは、ニコデモの精いっぱいの弁護であり、イエス様への傾倒の表れでした。最高議会(サンヘドリン、71人の議員で構成されたユダヤ社会の最高自治機関)でのニコデモは、油の中に落ちた一滴の水のような存在になっていたのです。しかしそれでもこの時点では、仲間とたもとを分かつほどの勇気を彼は持たなかったのでしょう(川上与志夫著『イエスをめぐる人びと』13~14ページ)。
けれども、ヨハネ福音書の最後部において3度目に登場するニコデモは、イエス様の亡きがらの所にいます。その場面については当該箇所をお伝えするときに詳述しますが、例えば上記の川上与志夫氏は、ニコデモがその後、復活のイエス様の光を体験するところまでを小説として描いています(同16~18ページ)。
なお、聖書外典になりますが、ニコデモ福音書という書も存在し、その中でのニコデモは、イエス様の裁判において、ポンテオ・ピラトの面前でイエス様の弁護をするなどの様子が伝えられています(日本聖書学研究所編『聖書外典偽典(6)新約聖書外典Ⅰ』185ページ以下)。
いずれにしましても、ニコデモは夜の闇の中からイエス様に会いに行き、最高議会の議員として精いっぱいイエス様の弁護をし、十字架から降ろされたイエス様に会うというプロセスを通じて、「闇から光へ」と移されていく人物として描かれています。その様子が、ヨハネ福音書ほぼ全編を通して伝えられているのです。
一方、イスカリオテのユダは、当初は12弟子の1人としてイエス様の光のもとにいたのですが、ニコデモの動きとは逆行するように、彼は夜の闇の中に出ていく(13章30節)人間へとなっていきます。そして、イエス様を売り渡すことさえするのです(18章1節以下)。その時にユダと行動を共にしていたのが、祭司長たちやファリサイ派の人々の下役たちでした。
当初はイエス様の言葉に感服し、その光のもとへと行こうとした下役たちが、やがてはユダと闇の中において行動を共にするようになる。その下役たちと交錯するように、イエス様を弁護する精いっぱいの発言を行ったニコデモ。出来事が進む中にも、その対照が釣り合わされているのが今回の話ではないかと思わされます。
もっとも、イスカリオテのユダも下役たちも、最後はイエス様の十字架と復活の光のもとに招き入れられるのでしょう。けれども、ヨハネ福音書の始終においては、その両者の光と闇のコントラストが伝えられているというのが、私のこの福音書の読み方です。(続く)
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