今回は、8章12~20節を読みます。
「私は世の光である」
12 イエスは再び言われた。「私は世の光である。私に従う者は闇の中を歩まず、命の光を持つ。」 13 それで、ファリサイ派の人々が言った。「あなたは自分について証しをしている。その証しは真実ではない。」 14 イエスは答えて言われた。「たとえ私が自分について証しをするとしても、その証しは真実である。自分がどこから来たのか、そしてどこへ行くのか、私は知っているからだ。しかし、あなたがたは、私がどこから来てどこへ行くのか、知らない。
聖書に見られる光に関する記述の中で、私にとって一番印象的なのは、エジプトを脱出したイスラエルの民を、夜になると火の柱が導いたと書かれている箇所です。出エジプト記13章21~22節に、「主は彼らの先を歩まれ、昼も夜も歩めるよう、昼は雲の柱によって彼らを導き、夜は火の柱によって彼らを照らされた。昼は雲の柱、夜は火の柱が民の前を離れることはなかった」とあります。幼い頃からこの話を聞くと、心がウキウキと躍ったことを覚えています。
一方で、「私は世の光である」というイエス様の言葉も好きでした。昨今「宗教2世」という言葉が話題となっていますが、私はまさにキリスト教原理主義の両親の元に生まれた宗教2世です。その立場に幾分反発しながら育ちましたが、聖書の話や言葉には引かれるものが少なからずあり、モーセの話やイエス様の「私は世の光である」という言葉には、魅力を感じていたわけです。
少しそれますが、人間は多かれ少なかれ環境に影響されて育ちます。そうしたことによるマイナス面は自分自身で克服していくものであり、それは一生の課題であるかもしれませんが、少しずつでも前向きに歩んでいけばよいのだと思います。困難な過去を背負っていても、与えられている自分の人生は、かけがえのないものであることを覚えていただければと思います。
さて、前述の話と言葉が、実は一体のものであることを知ったのは、ずいぶん後になってからでした。神学生の時であったか、牧師になって間もない頃であったかと思います。エルサレム神殿にともしびがともされていたのは、出エジプトにおける火の柱を記念するものであり、イエス様はその神殿において「私は世の光である」と語られたのです。
それを知ってからは、イエス様がご自身について言われた「光」についても印象が変わってきたと思います。私は、「光」というのは昼間の光のように煌々(こうこう)と輝くものであると思っていました。しかし、イスラエルを旅行したとき、イエス様の時代のものといわれるランプを買ったのですが、意外にも小さなそれを見ながら考えたのです。
「イエス様が言われている光とは、暗闇を照らす一筋の光であったのかもしれない」。そう考えました。そしてそのイメージは、今でも変わっていません。出エジプトの火の柱にしても、エルサレム神殿のともしびにしても、周囲は暗かったはずです。そこに一筋の光が差していることが、「光は闇の中で輝いている」(1章5節)ということではないかと考えています。イエス様の光と、この世の闇がせめぎ合っているということです。
「私は世の光である」という言葉は、ご自身についての証言でした。しかし、聞いていたファリサイ派の人たちは、「自分のことを自分で証言してもそれは真実ではない」と言ったのです。それに対してイエス様は、「自分のことを自分で証言していたとしても真実である。なぜなら、自分がどこから来てどこへ行くのか知っているからである」とお答えになります。
「私は誰をも裁かない」
15 あなたがたは肉に従って裁くが、私は誰をも裁かない。16 しかし、もし私が裁くとすれば、私の裁きは真実である。なぜなら私は独りではなく、私をお遣わしになった父と共にいるからである。17 あなたがたの律法には、二人が行う証しは真実であると書いてある。18 私は自分について証しをしており、私をお遣わしになった父も私について証しをしてくださる。」 19 彼らが「あなたの父はどこにいるのか」と言うと、イエスはお答えになった。「あなたがたは、私も私の父も知らない。もし、私を知っているなら、私の父をも知っているはずだ。」
ファリサイ派の人たちは、「自分のことを自分で証言してもそれは真実ではない」と、イエス様に対する裁きを行っています。それに対してイエス様は、「私は誰をも裁かない」と言われました。
前回、姦淫(かんいん)の女性の話で、イエス様が女性に対して「私もあなたを罪に定めない」と言われたことをお伝えしましたが、イエス様は「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためでなく、御子によって世が救われるため」(3章17節)のお方なのです。
イエス様は、罪ある闇の世に、まさに「世の光」として来られ、その救いのために輝き続けるお方なのです。イエス様を裁いたファリサイ派の人たちのように、自分自身の思いで人を裁く方ではありません。
まだ来ていないイエス様の時
20 イエスは神殿の境内で教えておられたとき、宝物殿の近くでこれらのことを話された。しかし、誰もイエスを捕らえなかった。イエスの時がまだ来ていなかったからである。
イエス様がこれらのことを話されたのは、エルサレム神殿の宝物殿の近くでした。宝物殿は金銭を管理する所で、この場合はさい銭箱が置かれている所ということであるようです。
この宝物殿の隣に「婦人の庭」という所があり、そこに出エジプトの火の柱を意味するともしびがともされていました。そこでイエス様は、「私は世の光である」と語られたのです。「宝物殿の近く」とありますから、婦人の庭で語ったのかもしれません。ちなみに、婦人の庭というのは、「女性が入ることができるのはそこまで」という、エルサレム神殿の内庭のことです。
イエス様がこれらのことを語っても、イエス様を捕らえる人は誰もいませんでした。それは、イエス様の時がまだ来ていなかったからです。この「時」は、ギリシャ語で「ホーラ」です。単なる時間軸における位置ではなく、他者との関わりの中に存在する時であると私は捉えています。
つまり、イエス様が十字架にかかる時を意味すると同時に、イエス様を十字架にかけるという人間の時もまだ来ていないということでしょう。しかし、ヨハネ福音書が「イエスの時がまだ来ていない」と伝えているのは、ここが最後になります。(続く)
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