今回は、8章48~9章7節を読みます。この箇所は、前回示しましたように、集中構造分析においては、8章12~31節と対をなしていると考えられます。さらに詳述するならば、8章54~59節は8章21~29節と「『私はある』と言われるイエス様」という内容において、9章1~7節は8章12~20節と「世の光であるイエス様」という内容において、それぞれ対称になっていると考えられます。なお、集中構造分析につきましては、別のコラム「コヘレト書を読む」の第9回に、分析方法などを記しています。
8章12~9章7節の集中構造分析の概要を掲載します。詳細な分析については、前回をご覧ください。
では、8章48節以下を読んでみましょう。
「あなたはサマリア人」という言葉に感じるもの
8:48 ユダヤ人たちが、「あなたはサマリア人で悪霊に取りつかれていると、我々が言うのも当然ではないか」と言い返すと、49 イエスはお答えになった。「私は悪霊に取りつかれてはいない。父を敬っているのだ。しかし、あなたがたは私を敬わない。50 私は、自分の栄光は求めない。私の栄光を求め、裁きをなさる方が、ほかにおられる。
ユダヤ人たちとイエス様の議論は続きます。ユダヤ人たちを非難していたイエス様に対して、彼らは「サマリア人」「悪霊に取りつかれている」という2つの「レッテル張り」をします。それに対してイエス様は、「私は悪霊に取りつかれてはいない」と、片方だけを否定されました。私は、ここは大事なところではないかと考えています。
ユダヤ人たちは、サマリア人を「異端者」と嫌い、交際していませんでしたが、イエス様は彼らと積極的に親しくされていました(第9回~第12回参照)。イエス様は2つのレッテルのうち、「サマリア人」については、強い意志で捨象されたのだと私は読み取っています。
ユダヤ人たちが、「サマリア人」というレッテル張りをしていたのはなぜだったのでしょうか。サマリア人は、自分たちが「ヤコブの子孫である」ということを強調していました(4章12節参照)。ヤコブの子孫であるならば、ヤコブの祖父であるアブラハムの子孫でもあるということになります。「自分たちこそがアブラハムの子孫である」ということを強く認識していたユダヤ人にとっては、このことは鼻持ちならないことであったと思うのです。
ユダヤ人たちは、普段からサマリア人をアブラハムの子孫としたがらなかったのでしょう。それと同じように、イエス様を自分たちと同じアブラハムの子孫とすることも嫌だったのだと思います。「あなたはサマリア人」という言葉のその言外に、イエス様を仲間外れにしようとしていることを読み取るのです。イエス様はそのことを強く感じ取られて、「サマリア人」という言葉には反応されなかったのだと私は思います。
永遠の命に生きる
51 よくよく言っておく。私の言葉を守るなら、その人は決して死を見ることがない。」 52 ユダヤ人たちは言った。「あなたが悪霊に取りつかれていることが、今はっきりした。アブラハムは死んだし、預言者たちも死んだ。ところが、あなたは、『私の言葉を守るなら、その人は決して死を味わうことがない』と言う。53 私たちの父アブラハムよりも、あなたは偉大なのか。彼は死んだではないか。預言者たちも死んだ。一体、あなたは自分を何者だと思っているのか。」
「よくよく言っておく」については、本コラムで幾度かお伝えしていますが、原語では「アメーン・アメーン・レゴー・ヒューミン」であり、イエス様がこの言葉で語り出している箇所は、いずれも重要なことが説かれているとお伝えしてきました(第16回参照)。
アメーンが2度繰り返されるのはヨハネ福音書の特徴です。マルコ福音書12章43節では、「よく言っておく」(アメーン・レゴー・ヒューミン)というイエス様の言葉が伝えられています。私が最近読んだある注解書は、この言葉について、「荘厳な宣言である。イエスは神の権威によって、神ご自身になりかわって話す」(シルヴァノ・ファウスティ著『思い起こし、物語れ(下)』313ページ)と説明しています。
この注解には納得させられました。ヨハネ福音書においても、「よくよく言っておく」は、「イエス様が神様ご自身になりかわって話されている」と捉えてよいのではないかと思います。
そう切り出されたイエス様は、「私の言葉を守るなら」と言葉を続けます。これは、前回お伝えした31節の「私の言葉にとどまるならば」を、意味的には繰り返しているものであると思います。ちなみに、31節と51節は、上記の集中構造分析においては対称箇所になっています。
31節以下では、「私の言葉にとどまるならば、罪から自由にされる」と要約できるイエス様の言葉が伝えられていましたが、51節以下では、「私の言葉を守るならば、死を味わうことがない」と伝えられています。私は、「罪から自由にされる」も、「死を味わうことがない」も、内容的に同じことであり、それはこの福音書の執筆目的の一つである「信じて、イエスの名によって(永遠の)命を得る」(20章31節)ということであろうかと考えています。
このように、ヨハネ福音書が伝えようとしている「永遠の命」とは、この世を去ってからの命というような彼岸的なものではなく、今生きている私たちの事柄であると思います。ユダヤ人たちはその「信じて、イエスの名によって(永遠の)命を得る」ことが分からなかったために、イエス様から指摘を受けていました。しかしそれは、読者全体への指摘でもあると思います。
アブラハムが生まれる前から「私はある」
54 イエスはお答えになった。「私が自分に栄光を帰するなら、私の栄光は空しい。私に栄光を与えてくださるのは私の父であって、あなたがたはこの方について、『我々の神だ』と言っている。55 あなたがたはその方を知らないが、私は知っている。私がその方を知らないと言えば、あなたがたと同じく私も偽り者になる。しかし、私はその方を知っており、その言葉を守っている。56 あなたがたの父アブラハムは、私の日を見るのを楽しみにしていた。そして、それを見て、喜んだのである。」
57 ユダヤ人たちが、「あなたは、まだ五十歳にもならないのに、アブラハムを見たのか」と言うと、58 イエスは言われた。「よくよく言っておく。アブラハムが生まれる前から、『私はある。』」59 すると、ユダヤ人たちは、石を取り上げ、イエスに投げつけようとした。しかし、イエスは身を隠して、神殿の境内から出て行かれた。
前述しましたように、この箇所は集中構造分析において8章21~29節と対称になっていると、私は考えています。その観点で言いますと、この箇所は対称箇所と比較して読むならば理解しやすいだろうと思います。両方の箇所においては、以下のような共通点があります。
- 「まさか自殺でもするつもりなのだろうか」(22節)、「あなたは、まだ五十歳にもならないのに、アブラハムを見たのか」(58節)というユダヤ人たちの誤解がある。
- 「私はある」と言われるイエス様の言葉が伝えられている(24、28、58節)。
- 父なる神様を「その方」と呼ぶ表現が使われている(26、55節)。
それにしましても、強調されていることは、「私はある」という、モーセが召命の時に神様から聞いた言葉が、イエス様によって語られていることだと思います(第31回参照)。しかもそれは、ユダヤ人が自分たちの祖先としているアブラハムを超える者として語られているのです。
それを聞いたユダヤ人たちは、当然ながら腹を立てました。それで、イエス様に石を投げつけようとしました。8章20節では、「イエスの時がまだ来ていなかったからである」と伝えられていましたが、いよいよその時が来たということなのかもしれません。イエス様は神殿から出て行かれます。
世の光であるイエス様
9:1 さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。2 弟子たちがイエスに尋ねた。「先生、この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか。」
3 イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。4 私たちは、私をお遣わしになった方の業を、昼の間に行わねばならない。誰も働くことのできない夜が来る。5 私は、世にいる間、世の光である。」
6 こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。7 そして、「シロアム——『遣わされた者』という意味——の池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、見えるようになって、帰って来た。
9章は、1節から最後の41節までが、「目の見えない人の癒やし」という、まとまった一つの話ですが、私は、そのうちの1~7節は、8章12節からと同じくだりなのではないかと考えています。8章12節以下では、イエス様がご自身のことを「私は世の光である」と顕現されたことが伝えられているのですが、それを、目の見えない人が光を得るという出来事において、「私は、世にいる間、世の光である」と言うことで、再現されているのです。
「目の見えない」という肉体的なことよりも、心の目が開かれることに対するイエス様のありようが伝えられている出来事であると思います。「神の業がこの人に現れ」(3節)たのです。(続く)
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