今回は、9章1~7節と35~38節を読みます。1~7節については第33回でも一度お伝えしましたが、8章12節以下の「私は世の光である」というメッセージに関連してのみでしたので、今回再度取り上げ、詳述したいと思います。
1 さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。2 弟子たちがイエスに尋ねた。「先生、この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか。」
3 イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。4 私たちは、私をお遣わしになった方の業を、昼の間に行わねばならない。誰も働くことのできない夜が来る。5 私は、世にいる間、世の光である。」
6 こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。7 そして、「シロアム――『遣わされた者』という意味――の池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、見えるようになって、帰って来た。
35 イエスは彼が外に追い出されたとお聞きになった。彼と出会うと、「あなたは人の子を信じるか」と言われた。
同じ伝承に属すると思われる2つの箇所
第34回と第35回でお伝えしたように、9章8~34節は、福音書記者ヨハネの時代に回心した一人の信徒を、イエス様の時代に目を開けていただいた盲人として描いたものだと、私は考えています。その信徒はイエス様の弟子であり、イエス様はメシアであると告白している人でした。
35節以下を見ますと、目を開けていただいた盲人が、8節以後では初めて、イエス様と再会しています。そこでイエス様から「あなたは人の子を信じるか」と問われると、「主よ、それはどなたですか。その方を信じたいのですが」と、既に信じているはずのイエス様について、信仰の対象として初めて接したような伝え方がなされています。そしてここで初めて、「主よ、信じます」とイエス様をメシアと告白しているように思えます。
8~34節とのこの齟齬(そご)は、イエス様の時代の伝承である1~7節と35節以下は、本来つながったものであって、そこにヨハネの時代の話である8~34節が挿入されているからだと、私は考えています。
つまり、見えなかった目に土を塗ってもらい、シロアムの池に行ってその土を洗うと、目が見えるようになった盲人は、ほどなくしてイエス様に再会して、そこでメシア告白をしているのです。ヨハネはその伝承の間に、ヨハネの時代に会堂から追放された信徒(「信徒」という表記はここまでにします)の話を挿入したのです。以下では、この見立てを前提にして、挿入話(8~34節)の前後の部分(1~7節と35~38節)について執筆していきます。
「神の業がこの人に現れるため」
人々から石を投げつけられそうになったイエス様は、神殿から出て行かれます(8章59節)。9章の話はその続きでしょう。ですから、舞台はエルサレム神殿の参道であろうと思います。日本ではほとんど見ることはないと思いますが、海外では宗教施設の参道に、喜捨を乞う人たちがいるのは珍しいことではありません。
私は、とあるイスラム教国に行った際、モスクの参道でそのような人たちを見かけたことがあります。その人たちは、モスクで礼拝する信者たちの喜捨を乞うているのです。ここでは一人の盲人が登場しますが、彼も神殿に礼拝に来る人たちの喜捨を願って参道にいたのでしょう。
弟子たちはイエス様に対して、「この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか」と尋ねます。弟子たちは、因果応報思想を基にしてそのように問うているのです。
ところで、旧約聖書のヨブ記には、病気になったヨブを慰めるために、3人の友人が遠くの地からやって来る話が伝えられています。しかし彼らは、ヨブに対して次々と因果応報思想を吹っかけるのです。
友人の一人であるテマン人エリファズの言葉に、「思い起こしてみよ。罪がないのに滅びた者があったか。正しい人で絶ち滅ぼされた者がどこにいたか」(4章7節)というものがあります。これは友人たちの言葉の最初の方のものですが、彼らはどこまでもこのように「あなたの今のありさまはあなたの罪の結果なのだ」という言葉をヨブにかけるのです。しかしそれは、困難の中にあるヨブをさらに苦しめるだけでした。
32章になると、若いエリフという人物が登場します。彼は、3人の友人がヨブに語っているのを聞いていましたが、年長者である彼らに遠慮して、自分が語ることをためらっていました。しかし、彼らがヨブに適切な言葉をかけられなかったのを見て、こらえきれなくなって語り出すのです。
3人の友人の言葉は、困難な状況にあるヨブを助けるものにはなりませんでしたが、エリフの言葉は、友人たちの言葉とはいささか経路が違っていました。友人たちは困難の原因を問い詰めようとしていましたが、エリフは困難の意味を問おうとしているように思えます。
36章15節に、「神は苦しむ人をその苦しみによって救い、彼らの耳を虐げによって開く」というエリフの言葉が伝えられています。「困難そのものが困難からの解放をもたらす」ということを伝えているのだと思います。人は困難を経験することによって、そのこと自体において、困難を乗り越える者となるのだということでしょう。困難の原因を問うのではなく、困難に意味を見いだそうというものです。
困難に直面した場合、友人たちの言葉と、エリフの言葉のどちらが励みになるでしょうか。困難は簡単に解決できるものではありません。解決することが難しい故に「困難」とされるのです。ですから、今現在困難に直面している人に対して、他者が安直に言葉をかけることはできません。しかし私自身は、自分が困難の中にいたとき、このエリフの言葉が励みとなった経験があります。その意味では、このエリフの言葉は、旧約聖書の中では最高度ともいえる、困難に直面している読者への言葉であるということができると思います。
話を戻しますが、イエス様は、弟子たちから「この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか」という、因果応報思想を基にした質問をされたとき、それを否定した上で、「神の業がこの人に現れるためである」とお答えになりました。この言葉は、エリフの言葉のような「困難の意味を問う」ということからも、さらに踏み込んでいるように思えます。困難を困難にとどまらせずに、「神の業がこの人に現れる」、すなわち困難をプラスに変えていこうとするものであるように思えます。
目が見えるようになる
イエス様は、地面に唾をして、土をこねて盲人の目に塗られました。土は人間の創造の象徴です。最初の人間アダムは、土から造られました。目に土が塗られたこの場面は、新しい創造が行われようとしているのです。しかしイエス様は、それで終わりにせず、「シロアムの池に行って洗いなさい」と言われました。シロアムとは「遣わされた者」という意味です。これは、イエス様が神様から「遣わされた者」であり、そのイエス様によって「神の業」がなされることを意味しているのだと思います。
この人は、シロアムの池に行って目を洗い、目が見えるようになって元の場所に帰ってきました。そして、私の見立てでは、この人は実際にはほどなくしてイエス様に再会し、「あなたは人の子を信じるか」という言葉をかけられるのです。
つまり、私の見立てでは、実際には、7節の「見えるようになって、帰って来た」の後に、35節bの「(イエスは)彼と出会うと、『あなたはの子を信じるか』と言われた」が続くのですが、その間にヨハネの時代の話(8~34節)が挿入されているのです。そして35節aの「イエスは彼が外に追い出されたとお聞きになった」は、この2つの異なる時代の話をつなぐものなのです。
目を開けていただいた人のメシア告白
36 彼は答えて言った。「主よ、それはどなたですか。その方を信じたいのですが。」 37 イエスは言われた。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」 38 彼は「主よ、信じます」と言って、イエスを礼拝した。(38節は新改訳2017による)
この盲人は、肉体の目を開けていただきました。しかし、同時に心のまなこも開かれたのではないでしょうか。その結果、メシアにお会いして信じたいという気持ちが生じたのでしょう。その気持ちをイエス様に直入に伝えています。イエス様は「あなたは、もうその人を見ている」とお答えになりました。これは、この人の肉体の目で見ているのと同時に、心のまなこでも見ていることが想定されていると思います。
そして、イエス様は「あなたと話しているのが、その人だ」と続け、目を開けていただいた人は「主よ、信じます」と言ってイエス様を礼拝します。これは、ベタニアのマルタの告白などと並ぶ、ヨハネ福音書が伝えるメシア告白の代表的なものの一つであると思います。
この人は、目が見えないという困難の中にありましたが、神の業がそこに現わされ、肉体の目と心のまなこが開かれるという証しがなされたのです。それはまさに、「神様は困難をプラスに変えてくださる」という出来事だったのです。(続く)
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