最後の説教
今回は、22章35~46節を読みます。
35 それから、イエスは使徒たちに言われた。「財布も袋も履物も持たせずにあなたがたを遣わしたとき、何か不足したものがあったか。」 彼らが、「いいえ、何もありませんでした」と言うと、36 イエスは言われた。「しかし今は、財布のある者は、それを持って行きなさい。袋も同じようにしなさい。剣のない者は、服を売ってそれを買いなさい。37 言っておくが、『その人は犯罪人の一人に数えられた』と書かれていることは、わたしの身に必ず実現する。わたしにかかわることは実現するからである。」 38 そこで彼らが、「主よ、剣なら、このとおりここに二振りあります」と言うと、イエスは、「それでよい」と言われた。
これは、イエス様から弟子たちに向けた最後の説教です。舞台は前々回と前回に引き続き、イスカリオテのユダにサタンが入った後の、最後の晩餐での席であると思われます。またこのお話は、ルカ福音書だけが伝えています。
イエス様は12弟子に権能を与えて派遣するときに、「旅には何も持って行ってはならない。杖も袋もパンも金も持ってはならない。下着も二枚は持ってはならない」(ルカ9:3)と言われました。
今回の最後の説教での語りは、弟子たちを派遣したときの上記の言葉がもとになっています。それは、「あの時には何も持たせずにあなたがたを遣わしたけれども、何も不足はなかっただろう。しかし、これからは財布や袋、剣を持っていきなさい」というものでした。
イエス様がこのように2度にわたって、しかも内容が正反対のことを言われたのはなぜだったのでしょう。前々回でお伝えしましたが、それには、イエス様が公生涯を始める前に荒野で悪魔の誘惑を受けた後に、悪魔(サタン)がイエス様を離れたということと、イスカリオテのユダにサタンが入ったということが関係していると思います。
荒野での誘惑の後、サタンがイエス様を離れたということは、イエス様とその後集められた弟子たちが、サタンの攻撃から守られていたことを意味しています。ですから、弟子たちが派遣されたときも、何も持たないで大丈夫だったのです。
しかし、サタンは再び弟子たちの周辺にいるのです。それで、財布や袋も持っていきなさいと言われ、さらに剣までをも、持っていないなら買ってでも持っていきなさいと言われたのです。そして、「(イザヤ書に)『その人は犯罪人の一人に数えられた』と書かれていることは、わたしの身に必ず実現する」と言われたのです。イエス様がおらず、弟子たちが自らサタンと戦わねばならない時代が来るということだろうと思います。
しかしイエス様は、剣を使っての暴力行為を認めたわけではありません。あくまでも、自衛のための剣を持ちなさいと言われたのです。ですから、弟子たちが「主よ、剣なら、このとおりここに二振りあります」と剣を誇示すると、「それでよい」と、それ以上の顕示を戒める言葉をかけられたのです。
イエス様は平和の王であり、武装をお認めになりませんでした。実際に、この後イスカリオテのユダの裏切りが起こったとき、ある者が大祭司の手下の耳を切り落とした際には、「やめなさい」と言われてその耳を癒やされたのです(49~51節)。
ルカ福音書における最後の晩餐の記事は、22章38節で終わりになります。
オリーブ山で祈る
39 イエスがそこを出て、いつものようにオリーブ山に行かれると、弟子たちも従った。40 いつもの場所に来ると、イエスは弟子たちに、「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言われた。41 そして自分は、石を投げて届くほどの所に離れ、ひざまずいてこう祈られた。42 「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」〔43 すると、天使が天から現れて、イエスを力づけた。44 イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた。〕 45 イエスが祈り終わって立ち上がり、弟子たちのところに戻って御覧になると、彼らは悲しみの果てに眠り込んでいた。46 イエスは言われた。「なぜ眠っているのか。誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい。」
最後の晩餐の後、イエス様はオリーブ山に行かれます。マタイ福音書とマルコ福音書の並行記事では、「ゲツセマネに行った」となっています。同行者についても違いがあり、ルカ福音書では「弟子たちも従った」と伝えられていますが、マタイ福音書とマルコ福音書では、ペトロ、ヤコブ、ヨハネの3人だけです。
イエス様は弟子たちに、「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言われて、ご自分は「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」と祈られました。43~44節は、幾つかの写本では欠けているので、新共同訳聖書では〔 〕に入れられています。
けれどもこの箇所によるならば、イエス様は天使に力づけられ、血の滴るような汗が地面に落ちていました。にもかかわらず、弟子たちはそしらぬ顔で眠っていたのです。イエス様は、「なぜ眠っているのか。誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい」と言われました。
弟子たちは、その後初代教会で指導者となります。この時のイエス様の言葉は、彼らにとってとても印象深いものであったでしょう。初代教会では、この出来事が繰り返し語られたことでしょう。私は、この「目を覚ましていなさい」というメッセージが、初代教会の中で強く伝えられていたのではないかと考えています。新約聖書の書簡集の中に、「目を覚ましていなさい」という言葉が多い(1コリント16・13、エフェソ6:18、コロサイ4:2、1ペトロ5:8)のも、そのためではないかと思えるのです。
イエス様が裏切られるときが近づいていきます。(続く)
◇