今回は、22章47節~54節aを読みます。
12弟子の1人、ユダ
47 イエスがまだ話しておられると、群衆が現れ、十二人の一人でユダという者が先頭に立って、イエスに接吻(せっぷん)をしようと近づいた。
イスカリオテのユダの出来事は、キリスト教を信仰する者たちにとって最大のポイントであると思います。それは、「歴史としてのキリスト教」としてもそうでありましょうし、「信仰としての私自身のキリスト教」にとってもそうなのだと思います。ユダは、私たち人間を代表する者でもあるからです。
ルカ福音書は、22章3節で「十二人の中の一人で、イスカリオテと呼ばれるユダの中に、サタンが入った」と伝えた後、もう一度47節で「十二人の一人でユダという者が」と伝えています。このような複数回にわたる伝え方は、ヨハネ福音書を含む他の福音書でも同様です。「十二人の一人」ということが強調されているのです。
20世紀のスイスの神学者カール・バルトは、『イスカリオテのユダ』という本を書いています。この本では、「使徒の1人としてのユダ」についてと、「引き渡し者であるユダ」について論じられています。前者においては、「十二弟子のひとり、ユダ」という言葉が強調されています(同書28ページ参照)。
ユダは、12弟子の1人として選ばれた者でした。しかし、バルトによるならば、「選ばれた者たちはまた(裏切ったユダのように)捨てられた者たちでもあり、そのようなものとして選ばれているだけであるということを念頭において、イエスは彼らを『最後まで愛し通され』なければならなかったのであり、イエスは彼らのために死ななければならず、彼らのために死んだ者としてご自分を彼らに与え給わなければならなかった」(同書82ページ)のです。
ユダが12弟子の1人として「選ばれた者」であることは、私たちにも共通することでありましょう。私たちは、「恵みによって選ばれた者たち」であるからです。けれども同時に私たちは、「捨てられた者たち」でもあり、そうであるが故にイエス様に「愛し通される」存在でもあるのです。
バルトはさらに、「いかなる捨てられた者を念頭においても、まさに彼の場所に、イエス・キリストにあって現れた神の奇(くす)しき方向転換によって、いつの日か、選ばれた者が立つであろうこと、そのこと以外のことが、待ち望まれ、推測されてはならないのである」(同書102ページ)とも述べています。
イスカリオテのユダが捨てられた者だとしても、彼は神様の方向転換によって、再び選ばれた者とされるであろうということを言いたいのだと思います。
引き渡し者としてのユダ
48 イエスは、「ユダ、あなたは接吻で人の子を裏切るのか」と言われた。
そのユダが、イエス様に接吻しようとして近づいたのです。新共同訳聖書では「裏切る」と訳されているパラディドーミという言葉は、元来「引き渡す」という程度の意味です(前掲書31ページ参照)。イエス様の上記の言葉も、「ユダ、あなたは接吻で人の子を引き渡すのか」というニュアンスで良いのではないかと思います。
バルトの前掲書も、後半は「引き渡し者であるユダ」について論じられています。イスカリオテのユダは、「裏切る」という行為をしたというよりも、「引き渡す」という役割を果たしたものとして伝えられているということです。それは、正当なことであったとすることはできませんが、イエス様が私たちの罪のための救い主となるための「役割」であったのだと思います。
マルコ福音書14章46節の並行箇所によるならば、イエス様は、イスカリオテのユダに接吻された時点で捕らえられたとされています。ルカ福音書では、ユダが接吻したとも伝えていませんし、その点は曖昧ですが、ここでイエス様は身柄を拘束され、逃げられないような状態にされたと見てよいでしょう。
切られた耳を癒やされたイエス様
49 イエスの周りにいた人々は事の成り行きを見て取り、「主よ、剣で切りつけましょうか」と言った。50 そのうちのある者が大祭司の手下に打ちかかって、その右の耳を切り落とした。51 そこでイエスは、「やめなさい。もうそれでよい」と言い、その耳に触れていやされた。
一帯は物々しい雰囲気になっていたと思います。前回お伝えした、弟子たちが持っていた剣を使ってでしょうか、大祭司の手下の耳が切り落とされます。今回のお話はヨハネ福音書にも並行記事があり、それによると、切り落としたのはペトロであったようです(同書18章10節)。
イエス様は武装をお認めになりませんでしたから、「やめなさい」といさめられました。そして、大祭司の手下の切られた耳を癒やされたのです。耳を癒やされたことは、4つの福音書でルカ福音書だけが伝えていることであり、癒やしはルカ福音書におけるイエス様の宣教の特色をなしているとされています(リチャード・アラン・カルペパー著『NIB新約聖書注解4 ルカによる福音書』577ページ参照)
暴力は、イエス様が捕らえられるときでさえも、イエス様自身によって否定されたのです。
イエス様の捕縛
52 それからイエスは、押し寄せて来た祭司長、神殿守衛長、長老たちに言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってやって来たのか。53 わたしは毎日、神殿の境内で一緒にいたのに、あなたたちはわたしに手を下さなかった。だが、今はあなたたちの時で、闇が力を振るっている。」 54 人々はイエスを捕らえ、引いて行き、大祭司の家に連れて入った。
祭司長、神殿守衛長、長老たちが押し寄せてきて、イエス様は捕らえられて、大祭司(マタイ福音書26章57節によれば、カイアファ)に引いていかれます。裁判にかけられることになるのです。(続く)
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