今回は22章54~62節を読みます。
ペトロの3度の否認
54 人々はイエスを捕らえ、引いて行き、大祭司の家に連れて入った。ペトロは遠く離れて従った。55 人々が屋敷の中庭の中央に火をたいて、一緒に座っていたので、ペトロも中に混じって腰を下ろした。56 するとある女中が、ペトロがたき火に照らされて座っているのを目にして、じっと見つめ、「この人も一緒にいました」と言った。57 しかし、ペトロはそれを打ち消して、「わたしはあの人を知らない」と言った。58 少したってから、ほかの人がペトロを見て、「お前もあの連中の仲間だ」と言うと、ペトロは、「いや、そうではない」と言った。59 一時間ほどたつと、また別の人が、「確かにこの人も一緒だった。ガリラヤの者だから」と言い張った。60 だが、ペトロは、「あなたの言うことは分からない」と言った。まだこう言い終わらないうちに、突然鶏が鳴いた。
祭司長たちに捕らえられたイエス様は、夜中に大祭司(マタイ福音書26章57節によれば、カイアファ)の家に連れて行かれました。マルコ福音書14章50節から推察しますと、弟子たちはイエス様を見捨てて逃げてしまったと思われます。しかしそれでも、「主よ、御一緒になら、牢(ろう)に入っても死んでもよいと覚悟しております」(ルカ22:33)と言っていたペトロは、近からぬところからイエス様を見守っていたようです。
大祭司の邸宅では、イエス様を捕らえた人たちでしょうか、人々が中庭で火をたいて、一緒に座っていました。ペトロもその中に混じって座りました。ペトロにとっては、これはいわばアウェイ状態です。恐る恐る、知らぬ振りをしてイエス様を捕らえた人たちの中に座っていたのだと思います。しかし、早速そのアウェイで攻撃を受けることになります。
こっそりと火に当たっていたペトロに、大祭司の家の女中でしょうか、彼女がペトロをじっと見つめ、「この人も(イエス様と)一緒にいました」と言ったのです。それに対し、ペトロはとっさにイエス様について「わたしはあの人を知らない」と言ってしまったのです。
これは、「ペトロの否認」といわれているお話で、4つの福音書全てで伝えられているものです。4つとも、ペトロが3度イエス様を知らないと言い、その後で鶏が鳴いたとされています。ルカが記していることをお伝えしますと、ペトロが女中の言葉を否定した少し後に、「お前もあの連中の仲間だ」と言われ、「いや、そうではない」と言い、さらに1時間ほどして、ガリラヤ地方のなまりがある言葉で話したからでしょうか、「確かにこの人も一緒だった。ガリラヤの者だから」と言われました。しかし、ペトロは「あなたの言うことは分からない」と答えたのです。すると、そこで鶏が鳴いたのです。
ペトロは、確かにイエス様を愛していました。ですから、他の弟子たちが逃げ出してしまったにもかかわらず、イエス様に従っていきます。しかし、イスカリオテのユダ同様にサタンにふるいにかけられ(ルカ22:31)、3度の否認をしてしまったのです。
罪の常習化
このように、いずれの福音書も3度の否認を伝えているところに、私は「罪の常習化」ということを見ます。実際に聞いたことがある話ですが、日本に学びに来たあるアジア人留学生が、アルバイトをやめさせられてお金が無くなり、コンビニで万引きをしたそうです。彼は盗んだおにぎりを、涙でぐちゃぐちゃになりながら食べたそうです。
ところが、いつしかその万引きが常習化し、ついに見つけられ、刑務所に行くことになります。しかし、そこで終わらず、出所した彼はさらに重大な犯罪を犯してしまいます。ペトロも最初は、女中のひと言に何気なく「知らない」と言ってしまったのかもしれませんが、それが2度、3度と常習化する様が伝えられています。
イエス様のまなざし
61 主は振り向いてペトロを見つめられた。ペトロは、「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われた主の言葉を思い出した。62 そして外に出て、激しく泣いた。
4つの福音書のうちで、ルカ福音書だけが「主は振り向いてペトロを見つめられた」という言葉を伝えています。捕らえられて、自由な振る舞いができない状況でも、なおペトロを気にかけるイエス様の思いが伝わってきます。イエス様の優しいまなざし、それはやはり、ルカ福音書だけが伝えている「わたしはあなたのために、信仰がなくならないように祈った」(22章32節)という言葉と共通するものがあるように思えます。
このペトロを見つめるイエス様のまなざしは、『讃美歌21』197番「ああ主のひとみ」の2節の歌詞になっています。
ああ主のひとみ まなざしよ、
三たびわが主を いなみたる
よわきペトロを かえりみて、
ゆるすはたれぞ 主ならずや。
ペトロがイエス様を否認したその罪を、赦(ゆる)してくださっている様が歌われています。赦されたペトロは激しく泣きます。そこには、ペトロが罪を犯しても立ち直っていく様子が示されていると思います。
ペトロの罪は私たちの罪であり、ペトロへの赦しは私たちへの赦しです。その赦しの出来事である十字架への歩みが、まさに始まろうとしています。(続く)
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