今回は、22章24~34節を読みます。前回、「荒野の誘惑以後、イエス様や弟子たちを離れていたサタンが、イスカリオテのユダに入ったことで、守られていた時間が過ぎ、現実の時間が戻ってきた」とお伝えしました。今回の箇所は最後の晩餐の席でのことですが、サタンによる弟子たちへの攻略が行われていることが示されています。
一番偉い者論争
24 また、使徒たちの間に、自分たちのうちでだれがいちばん偉いだろうか、という議論も起こった。25 そこで、イエスは言われた。「異邦人の間では、王が民を支配し、民の上に権力を振るう者が守護者と呼ばれている。26 しかし、あなたがたはそれではいけない。あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい。27 食事の席に着く人と給仕する者とは、どちらが偉いか。食事の席に着く人ではないか。しかし、わたしはあなたがたの中で、いわば給仕する者である。
イエス様が荒野でサタンから受けた誘惑は、物欲(石をパンにしてみろ)、支配欲(この国の一切の権力と繁栄とを与えよう)、名誉欲(ここから飛び降りたら英雄になれるぞ)によるものでした。イエス様はこれらの欲望の誘惑を退けられましたが、弟子たちは欲望のとりこになってしまったのです。
「自分たちの間で誰が一番偉いか」という議論は、弟子たちの支配欲をかり立てるものでした。この議論の輪の中に、イスカリオテのユダもいたわけですが、サタンはユダに入っただけではなかったのです。サタンは、他の弟子たちをも誘惑していたと言い得ると思います(最後の晩餐とサタンの誘惑については、ハンス・コンツェルマン著『時の中心―ルカ神学の研究』139~142ページ参照)。
この議論に対するイエス様の答えは、晩餐の席での語りというよりも、その後、宣教者として立たされていくことになる弟子たちの指導者としての在り方を説いていると思います。そういった文脈で読むならば、25節の「異邦人」というのは、キリスト教徒でない者ということであり、「異邦人の間ではこうである」という言い方は、そのようにしないことが、逆説的にキリスト教徒の生き方であることを示していると思います。
そしてその内容は、「仕える者のようであれ」というものでした。イエス様ご自身が仕える者であったからです。ヨハネ福音書では、最後の晩餐の様子は13~17章で伝えられていますが、イエス様はその冒頭で、弟子たちの足を洗ったとされています。
そして、イエス様はそこで、「主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない」(ヨハネ13:14)と言われました。仕える者であったイエス様のようになることが、弟子たちに求められたことであり、今日の教会においてなされている宣教の内容そのものなのです。
弟子たちが受ける試練
28 あなたがたは、わたしが種々の試練に遭ったとき、絶えずわたしと一緒に踏みとどまってくれた。29 だから、わたしの父がわたしに支配権をゆだねてくださったように、わたしもあなたがたにそれをゆだねる。30 あなたがたは、わたしの国でわたしの食事の席に着いて飲み食いを共にし、王座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる。」
イエス様は言葉を続けられますが、ここでも弟子たちの将来について語られています。「王座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる」というのは、新たなイスラエル、すなわち教会の指導者となっていくということであろうかと思います。
その時にはまた試練を受けるであろうが、イエス様がさまざまな試練(これはこの後に起こる十字架の出来事をも含めると思います)に遭ったときに、たとえ一時的に逃げることがあっても一緒に踏みとどまってくれたのと同じようにしなさいということであろうかと思います。
そしてそれは、12弟子にとどまらず、宣教者として召される人たちに言われていることでもあると思います。使徒言行録20章19節でパウロは、「すなわち、自分を全く取るに足りない者と思い、涙を流しながら、また、ユダヤ人の数々の陰謀によってこの身にふりかかってきた試練に遭いながらも、主にお仕えしてきました」と語っています(『説教者のための聖書講解―釈義から説教へ ルカによる福音書』567~568ページ、村山盛忠著「ルカによる福音書第22章24~34節」参照)。
イエス様が種々の試練に遭ったとき、弟子たちが絶えず一緒に踏みとどまったのと同じように、宣教者が受けるこうした試練を受けとめなさいということでしょう。
やり直せます
31 「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。32 しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」
本コラムの当初からお伝えしていますが、私はルカ福音書の主題は、「やり直せます」であると考えています。そのように考えるようになった理由の一つがこの箇所です。ルカ福音書のみが、ペトロ(シモン)に対して「あなたは立ち直れるのだ」と語るイエス様の言葉を伝えているのです。
サタンは弟子たちを誘惑して、信仰から離れさせることを神様に願います。それはさながら、小麦をふるいにかけるようなことでした。そしてイスカリオテのユダは、見事にふるいの目を通させられて、イエス様を裏切ることになるのです。神様がそんなサタンの願いを聞き入れるのかと思いますが、旧約聖書のヨブ記1~2章を読みますと、神様はヨブに試練を与えることを求めるサタンの願いを聞き入れており、納得させられます。
大切なことは、ふるいにかけられようとしていたペトロに対して、イエス様が「あなたのために、信仰が無くならないように祈った」と言われていることです。そして、「あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」と言われます。ペトロはこの後、イエス様の弟子であることを否認して、いわば失敗をしてしまいますが、使徒言行録を読みますと立ち直った彼の姿がここかしこで伝えられています。
イエス様は、今日も私たちのために祈ってくださっておられます。
否認の予告
33 するとシモンは、「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と言った。34 イエスは言われた。「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。」
イエス様は、ペトロの否認を予告します。ペトロはまさに、ふるいの上に乗せられているのです。この箇所は、22章54~62節をお伝えする際にまた取り上げたいと思います。(続く)
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