3月28日は洗足木曜日です。今回は、予定通りであれば12章35~50節をお伝えするのですが、洗足木曜日の週であることを鑑み、洗足が書かれた次の13章1~17節を読みます。12章35~50節は、次回お伝えします。
ラザロの家での晩餐との共通点
1 過越祭の前に、イエスは、この世から父のもとへ移るご自分の時が来たことを悟り、世にいるご自分の者たちを愛して、最後まで愛し抜かれた。2 夕食のときであった。すでに悪魔は、シモンの子イスカリオテのユダの心に、イエスを裏切ろうとする思いを入れていた。
共観福音書においては、「最後の晩餐」として、パンを食べ、ぶどう酒を飲む場面が伝えられており、それが今日の聖餐式として受け継がれています。つまり、聖餐式の制定が、最後の晩餐においてなされているのです。しかし、ヨハネ福音書においては食事の内容については触れられず、ただ「夕食のときであった」とだけ伝えられています。つまり、ヨハネ福音書には聖餐式の制定の言葉はないのです。
しかし、この場面が「晩餐」であることには違いありません。この数日前には、マルタとマリアとラザロの家でも晩餐が持たれました(第47回参照)。山口里子氏は、この2つの晩餐の共通点をリスト化しており(山口里子著『マルタとマリア』248~249ページ)、これは興味深い分析であると思います。
そのリストの5番目に、「両方のシーンで、ユダの在席が否定的に述べられており、ユダは裏切りと金銭箱への言及で会計係として紹介されています」とあります。前者の晩餐では「塗油」が、後者の晩餐では「洗足」が行われますが、この「両足」(ギリシャ語ではポドス)に対してなされたことを巡ってユダが伝えられていることは、後述するように意味のあることだと思います。
十字架の先取りとしての洗足
3 イエスは、父がすべてをご自分の手に委ねられたこと、また、ご自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、4 夕食の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手拭いを取って腰に巻かれた。5 それから、たらいに水を汲(く)んで弟子たちの足を洗い、腰に巻いた手拭いで拭き始められた。
聖書の時代、旅人をもてなすことが、定住した家を持つ人たちには大切なことでした。私はその風習があってこそ、原始教会は「家の教会と巡回宣教師」というシステムを用いて福音を広めることができたのだと考えています(「パウロとフィレモンとオネシモ」第4回参照)。「洗足」は、もてなしの行為として大切にされていたようです。
旅をしてきた人たちは足が汚れています。通常、旅人の足を洗うのは奴隷の仕事でした。たらいも、足を洗う専用のものがあったようです(『新聖書大辞典』20ページ「あしだらい」の項目)。ところが、イエス様はこの時、ご自身でたらいに水をくんできて弟子たちの足を洗い、手拭いでそれを拭いたのです。
イエス様がこのように弟子たちの足を洗ったことは、十字架のしるしであるといわれています(伊吹雄著『ヨハネ福音書注解Ⅲ』64ページ)。十字架の先取りと言ってもよいでしょう。人々のために謙虚な姿で十字架にかかられたイエス様の、その愛の行為を先取りしていることなのです。イエス様が、体の中で最も汚い部分である足を洗ったことは、人間の心の汚さを洗われることであり、十字架によって罪を洗われることを示す行為であったのです。
理解できなかったペトロ
6 シモン・ペトロのところに来られると、ペトロは、「主よ、あなたが私の足を洗ってくださるのですか」と言った。7 イエスは答えて、「私のしていることは、今あなたには分からないが、後で、分かるようになる」と言われた。
8 ペトロが、「私の足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もし私があなたを洗わないなら、あなたは私と何の関わりもなくなる」とお答えになった。9 シモン・ペトロは言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も。」10a イエスは言われた。「すでに体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。
しかし、弟子の筆頭格であったペトロは、その行為を理解することができませんでした。ペトロは、体をきれいにするという、この世のレベルでしかイエス様の行為を受け取れなかったのです。ですから、ペトロとイエス様のやりとりはかみ合いません。イエスがなさろうとしていたことは、十字架の愛をそこで示し、人間の心の汚さを洗い拭うことでした。だから「今あなたには分からないが、後で、分かるようになる」と、十字架後を見据えた発言をされたのです。
それに対してペトロは、「私の足など、決して洗わないでください」と願います。イエス様は、「もし私があなたを洗わないなら、あなたは私と何の関わりもなくなる」とお答えになり、ペトロの足を洗われました。足を洗うということは、十字架のイエス様が人の罪を赦(ゆる)すことを意味しているのです。イエス様はペトロに対して、汚れを洗い取り、罪を赦す行為を貫徹されたのです。
ペトロはその後も、「足だけでなく、手も頭も」と言い、依然としてイエス様の行為の意味を理解していなかったようです。「足を洗う」という行為は十字架を意味するもので、罪の赦しの象徴的行為であり、体をきれいにするという、この世的な意味でイエス様は足を洗ったのではなかったのです。
イスカリオテのユダの足を洗ったイエス様
10b あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない。」 11 イエスは、ご自分を裏切ろうとしている者が誰であるかを知っておられた。それで、「皆が清いわけではない」と言われたのである。
見逃してはならないことは、イエス様を裏切ることになるイスカリオテのユダも、足を洗ってもらった弟子たちの中にいたことです。ユダは、マリアがイエス様の両足に塗油する場面に立ち会っていましたが、この洗足の場面においては、自らもイエス様から足を洗っていただいたのです。
神学者カール・バルトはこのことについて、「足は、また全身きれいな者にとっても汚い部分である。全身きれいな者のこのきたなさ、使徒たちの汚い足を、イスカリオテのユダが代表している」(カール・バルト著『イスカリオテのユダ』37ページ)と書いています。そしてバルトは、その汚さとは、マリアの塗油の場面での発言に見られる「献身が、もしそれが起こらなければならないとしたら、実りあるものにしたい」という思い(同書38~39ページ)であるとしています。
弟子たちにとって、自分自身の献身の行為や善行は、人から称賛を受けたいものであるでしょう。ユダの行為は、その代理となっているというのです。そうなりますと、ユダは私たちの代理者であるとも言えるのです。
「あなたがたも互いに足を洗い合うべきである」
12 こうしてイエスは弟子たちの足を洗うと、上着を着て、再び席に着いて言われた。「私があなたがたにしたことが分かるか。13 あなたがたは、私を『先生』とか『主』とか呼ぶ。そう言うのは正しい。私はそうである。14 それで、主であり、師である私があなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合うべきである。
15 私があなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのだ。16 よくよく言っておく。僕(しもべ)は主人にまさるものではなく、遣わされた者は遣わした者にまさるものではない。17 このことが分かり、そのとおりに実行するなら、幸いである。
弟子たちの足を洗ったイエス様は、これからは弟子たち同士で足を洗い合いなさいと言われました。それは、弟子たちに対する新しい戒めの命令であったでしょう。そしてそれは、神様からの命令でもありました。「僕は主人にまさるものではなく、遣わされた者は遣わした者にまさるものではない」という言葉は、「神様→イエス様→弟子たち」という図式を表しています。
しかし、新しい時代の命令は、十戒のように「してはならない」という禁止の命令ではなく、山上の説教の命題のように、「(そのようにするならば)幸いである」という言い方で伝えられています(マタイ福音書5章3~10節)。
「足を洗い合う」とは、互いの罪を赦し合うことです。その赦し合いの行為は、後の教会でも教え続けられていきました。「神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい」(エフェソ書4章32節)とある通りです。私たちがそのように歩むところに、神様からの幸いが与えられるのだと思います。(続く)
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