今回は、12章35~50節を読みます。ヨハネ福音書は、12章までが前半とされていますが、この箇所はそのまとめということができましょう。
また、37~43節は、後のヨハネ共同体による挿入であると考えられます。そして、本来は35~36節と44~50節が一続きであったように思えます。そこで、37~43節を別個に切り離して先に読み、35~36節と44~50節は一続きにして、その後に読むことにします。
預言者イザヤの言葉の成就
37 このように多くのしるしを彼らの前でなさったが、彼らはイエスを信じなかった。38 預言者イザヤの言葉が実現するためであった。彼はこう言っている。「主よ、誰が私たちの知らせを信じましたか。主の腕は、誰に示されましたか。」 39 彼らが信じることができなかった理由を、イザヤはまた次のように言っている。40 「神は彼らの目を見えなくし、心をかたくなにされた。彼らが目で見ず、心で悟らず、立ち帰ることのないためである。私は彼らを癒やさない。」 41 イザヤは、イエスの栄光を見たので、このように言い、イエスについて語ったのである。
2章の「カナの婚礼」から11~12章の「ラザロの復活」までは、イエス様のなさった「しるし」を中心にして、それに関連した教えなどが伝えられています。他の福音書では「奇跡」とされているものを、ヨハネ福音書ではあえて「しるし」としているように思えます。韓国語の聖書(改訳改定版)を見ますと、「しるし(セーメイア)」が「標的」という単語に翻訳されています。つまり、イエス様をメシアと告白するための「標的」が「しるし」なのです。
12章までに、7つのしるし(他に「役人の息子の癒やし」「ベトザタの池での病人の癒やし」「5千人の供食」「湖上歩行」「目の見えない人の癒やし」)が伝えられていますが、「このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない」(20章30節)とありますから、7つ以外にもたくさんのしるしがなされたのでしょう。また、「何が人の心の中にあるかをよく知っておられたのである」(2章25節)に始まる、ニコデモとの対話(3章)、サマリアの女性との対話(4章)も、しるしに準じたものであるといえましょう。
しるしは、父なる神様がイエス様に働かれて、それを通して人々がイエス様をメシアと告白するためになされました。しかし、ユダヤ人たちはしるしが行われてもイエス様を信じることをしませんでした。後のヨハネ共同体においては、そのことを預言者イザヤの預言の成就であったと考え、ここにその見解を挿入したのではないかと思われます。
それは、2章22節の「イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた」、12章16節の「弟子たちは最初これらのことが分からなかったが、イエスが栄光を受けられたとき、それがイエスについて書かれたものであり、人々はそのとおりイエスにしたのだということを思い出した」と同じようなものであり、後のヨハネ共同体の「想起」による記述といえるでしょう。
イザヤの預言は2つ示されます。1つ目は53章1節で、2つ目は6章10節です。53章1節は今日では第2イザヤによるものとされますが、ここでは両方とも同じイザヤの預言とします。1つ目は、苦難を負った名もなき預言者である「主の僕(しもべ)」について語られている箇所からのものであり、初代教会においてはこの「主の僕」は、イエス様を指し示していると解釈されていました。
2つ目はイザヤが召命を受けたときのものであり、預言者が人々から迫害されることを予想した言葉です。そうしたイザヤの預言は、多くのしるしを行ったにもかかわらず人々に受け入れられなかったイエス様の出来事を指し示しているのだと、後のヨハネ共同体において理解されたということです。
会堂から追放されることを恐れた議員たち
42 とはいえ、議員の中にもイエスを信じる者は多かった。ただ、会堂から追放されるのを恐れ、ファリサイ派の人々をはばかって告白はしなかった。43 彼らは、神からの誉れよりも、人間からの誉れを好んだのである。
第35回において、イエス様に目を開いていただいたとされる人が会堂を追放されたことに関連して、福音書記者ヨハネの時代にユダヤ教コミュニティーを追放された一人のキリスト教徒のことをお伝えしました。ここでは、議員の中にも会堂を追放されることを恐れた人たちがいたことが記されていますが、文脈において捉えるならば、この人たちは後のユダヤ教コミュニティーの中で、イエス様を信じていた議員たちのことを指しているのでしょう(J・L・マーティン著『ヨハネ福音書の歴史と神学』51~52ページ)。
ヨハネ福音書の読者である私たちは、彼らが「神からの誉れよりも人間からの誉れを好んだ」とされていることに留意して、私たちが今歩んでいる生活の中で、神様との関係を大切にしていくことを示されているのだと思います。
イエス様の宣教の最後の言葉
35 イエスは言われた。「光は、今しばらく、あなたがたの間にある。闇に捕らえられることがないように、光のあるうちに歩きなさい。闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。36 光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。」 イエスはこれらのことを話してから、立ち去って彼らから身を隠された。
44 イエスは叫んで、こう言われた。「私を信じる者は、私ではなくて、私をお遣わしになった方を信じるのである。45 私を見る者は、私をお遣わしになった方を見るのである。46 私を信じる者が、誰も闇の中にとどまることのないように、私は光として世に来た。47 私の言葉を聞いて、それを守らない者がいても、私はその者を裁かない。私は、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。
48 私を拒み、私の言葉を受け入れない者に対しては、裁くものがある。私の語った言葉が、終わりの日にその者を裁く。49 なぜなら、私は自分勝手に語ったのではなく、私をお遣わしになった父ご自身が、私の言うべきこと、語るべきことをお命じになったからである。50 父の命令は永遠の命であることを、私は知っている。だから、私が語ることは、父が私に言われたとおりを、そのまま語っているのである。」
ヨハネ福音書においてイエス様が群衆に語られる場面は、この箇所が最後になります。後は弟子たちへの告知と、受難と復活の場面になります。その意味では、この部分がイエス様の宣教の最後の言葉ということになりますが、ここでは3つのことが語られているといえます。
1つ目は、イエス様は光としてこの世に来られたこと、2つ目は、イエス様は神様から遣わされた方で、神様の命令を語っておられること、3つ目は、その神様の命令とは永遠の命であることです。
光といいますと、私は旧約聖書のコヘレト書11章7節の「光は快く、太陽を見るのは目に心地よい」という言葉を連想します。コヘレトはそれを前提として、「(光のある)あなたの若き日に、あなたの造り主を心に刻め」としています。神様を信じることをこれから先のこととするのではなく、今、神様を信じなさいということであろうと思います。
イエス様がここで「光のあるうちに歩きなさい」と言われているのも、これから後にではなく、今、私を信じなさいということだと思います。これは、ヨハネ福音書が伝えることの中で大切なことです。終わりの日にある復活よりも、今この時にイエス様が私たちの前で復活なさり、私たちも今、復活させられるのだということです。
イエス様が神様から遣わされた方であることは、繰り返し語られてきましたので、ここで再確認すればよいと思います。そして、父なる神様の命令である「永遠の命」については、これまでにも語られてきましたが、13章以降の弟子たちへの訓話の中でも展開され、より具体的なことが語られていきます。(続く)
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