ヨハネ福音書は、「光と闇」という対立する2つのことを伝えることによって、「私は光である」と言われたイエス様を浮かび上がらせているように思えます。また、ヨハネ福音書の序言に当たる部分には、「光は闇の中で輝いている」(1章5節)という言葉がありますが、この言葉は、この福音書全体で展開されているようにも思えます。
そうなりますと、ヨハネ福音書で伝えられている人物たちの中に、「光と闇」をそれぞれ象徴している者がいるとも考えられます。私はそれを、夜の闇の中から光であるイエス様の所にやって来たニコデモ(第6回「『ニコデモ』―夜にやって来た男」参照)と、光であるイエス様の元にいながら、夜の闇の中に出て行ったイスカリオテのユダに見ているのです。
今回は、ユダが夜の闇の中に出て行った場面の記述がある13章18~30節を読みますが、こうした視点を取り入れて執筆したいと思います。
神様の御心であったイエス様の十字架
18 私は、あなたがた皆について、こう言っているのではない。私は、自分が選んだ者を知っている。しかし、『私のパンを食べている者が、私を足蹴にした』という聖書の言葉は実現しなければならない。19 事の起こる前に、今、言っておく。事が起こったとき、『私はある』ということを、あなたがたが信じるためである。20 よくよく言っておく。私の遣わす者を受け入れる人は、私を受け入れ、私を受け入れる人は、私をお遣わしになった方を受け入れるのである。」
最後の晩餐の席で弟子たちの足を洗われた後、イエス様は自分を宗教指導者たちに引き渡そうとしている者について話し始められました。しかしその者は、イエス様ご自身が「選んだ者」であり、イエス様が引き渡されることは「聖書の言葉」(詩編41編10節)が実現することであったのです。つまり、それは神様の御心でした。聖書におけるユダの話を読むとき、これは重要なことだと思います。
そして、イエス様は「事が起こったとき(十字架刑が執行されたとき)、『私はある』ということを、あなたがたが信じるため」に、これらのことを事前に話すのだと言われました。「私はある」という言葉は、イエス様がしばしば使われた言葉ではありますが、もともとはモーセがイスラエルの民を率いて出エジプトをする前、彼に顕現した神様がご自身の名前として示されたものでした(出エジプト記3章14節)。
つまり、「私はある」とは、神様が顕現されるときの言葉であり、イエス様がこの言葉を使われたのも、ご自身が神様から遣わされた、神様と等しい者であることを示されるためだったのです。そして、十字架刑が起こってもそれは変わらないのだから、あなたがたは動揺することなく信仰を持ち続けなさいという意味合いで、「事が起こったとき」と言われたのでしょう。
実際に、イエス様の十字架刑が執行されたときに散り散りに逃げてしまった男性の弟子たちは、その後よみがえられたイエス様との出会いを経て、神の子であるイエス様の十字架の死を伝える宣教者になっていきました。きっと彼らは、生前のイエス様のこの時の言葉を思い出したことでしょう。
イエス様は、宗教指導者たちと通じていたユダによって、彼らに引き渡されます。いわばこの世の権力にもてあそばれるわけですが、それでイエス様の神性が否定されるわけではありません。むしろ、この一連の出来事の中に神様の御心が働いていたのです。
愛弟子の登場
21 イエスはこう話し終えると、心を騒がせ、証しして言われた。「よくよく言っておく。あなたがたのうちの一人が私を裏切ろうとしている。」 22 弟子たちは、誰のことを言われたのか察しかねて、顔を見合わせた。23 イエスのすぐ隣には、弟子の一人で、イエスの愛しておられた者が席に着いていた。24 シモン・ペトロはこの弟子に、誰について言っておられるのかと尋ねるように合図した。
イエス様は改めて、自身を宗教指導者たちに引き渡す者がいることを語られました。21節の「裏切ろうとしている」の「裏切る」は、「引き渡す」を意味するギリシャ語のパラディドーミを訳したものです。口語訳、新共同訳、聖書協会共同訳はいずれも「裏切ろうとしている」と訳していますが、これは意訳のし過ぎではないかと思います。「引き渡そうとしている」と、原語の意味をそのまま訳すのが良いと思います。
「裏切る」と訳されたことからでしょうか、「裏切り者のユダ」という言葉とイメージが定着してしまっているように思えます。しかし、「引き渡したユダ」が本来の意味でしょう。ユダの行為はあくまでも神様の御心の範囲のことであり、サタンがユダに取り入ったのであり、ユダ自身が「裏切った」ということではないと私は思います。
弟子たちは、イエス様の言われている人が誰のことか分からなかったので、互いに顔を見合わせていました。そしてここで、ヨハネ福音書において初めて「イエスの愛しておられた者」(「愛弟子」とも呼ばれる)が登場します。弟子の1人がこのように呼ばれるのはヨハネ福音書のみであって、3つの共観福音書にはこのような記述はありません。
伝統的に、この人物はゼベダイの子ヨハネ、つまりヨハネ福音書の著者であるといわれてきました。しかしこの説は、今日の聖書学においては受け入れられていないようです。ヨハネ福音書ではこの後、幾度もこの愛弟子が登場しますが、私は彼が誰であるかという特定はせず、単に愛弟子としてお伝えします。また、愛弟子は大概ペトロとペアで登場します。そこには、ペトロと愛弟子のライバル的な関係を読み取ることができると思います。
今回の場面では、愛弟子はイエス様の隣にいました。ここでもペトロがペアとなっていて、彼はこの愛弟子に、引き渡す者は誰なのかをイエス様に聞くように合図しました。「合図する」と訳されているギリシア語のニューオーは、うなずいて目配せをしたというような意味だと思います。顔を使って、愛弟子に合図をしたということでしょう。
つまり、ペトロはここでは、愛弟子に対して指示できる立場にあったのです。しかし、十字架刑の後、イエス様が墓からいなくなったと聞いたときには、一緒に走って行った愛弟子の方が早く墓に着いてしまいます(20章4節)。ペトロと愛弟子の位地が逆転していくのです。
ユダにサタンが入る
25 その弟子が、イエスの胸元に寄りかかったまま、「主よ、誰のことですか」と言うと、26 イエスは、「私がパン切れを浸して与えるのがその人だ」とお答えになった。それから、パン切れを浸して取り、シモンの子イスカリオテのユダにお与えになった。27 ユダがパン切れを受けるやいなや、サタンが彼の中に入った。イエスは、「しようとしていることを、今すぐするがよい」と言われた。
28 座に着いていた者は誰も、なぜユダにこう言われたのか分からなかった。29 ある者は、ユダが金入れを預かっていたので、「祭りに必要な物を買いなさい」とか、貧しい人に何か施すようにと、イエスが言われたのだと思っていた。30 ユダはパン切れを受け取ると、すぐ出て行った。夜であった。
ペトロの目配せを受けた愛弟子は、イエス様に対して「誰のことですか」と尋ねます。イエス様の答えは、見方によっては奇妙にも思える「私がパン切れを浸して与えるのがその人だ」というものでした。共観福音書であれば、この時の最後の晩餐は、聖餐式が制定された場でした。つまり、イエス様はユダに聖餐のパン、すなわち「自分の体」を与えるのです。私はやはり、ここにイエス様のユダへの愛を感じます。
しかし、サタンがユダに取り入ります。そしてユダは、イエス様を引き渡すために夜の闇の中へと出て行ってしまいます。そして数時間後には、イエス様を宗教指導者たちに引き渡すのです。マタイ福音書27章3~10節によるならば、ユダはそのことを後悔して、イエス様が十字架にかけられる前に自殺してしまいます。
一方、冒頭に光の象徴であるとお伝えしたニコデモは、息を引き取ったイエス様が十字架から取り下ろされた際、没薬と香料を混ぜたものを持って行き、イエス様を包んだ亜麻布の中に入れます(19章39~40節)。ニコデモは、最初にやって来た夜にはイエス様をメシアと告白することはできませんでしたが(3章1~15節)、十字架刑後のこの行為は、彼のメシア告白として読み取れるのではないかと私は考えています。
ニコデモのように闇の中から光であるイエス様の元に来て、最後にメシア告白へと導かれた者がいる一方で、光であるイエス様の元から闇の中に出て行き、命を絶ってしまったユダがいるのです。これらを伝えることによって、ヨハネ福音書は、読者を光であるイエス様の所に導いているのだと思います。
しかし、お伝えしてきましたように、ユダの引き渡しの行為から、イエス様の十字架に至るまでのことは、神様の御心の内にあることだったのです。そしてイエス様は、ユダに対して聖餐のパンを与えているのです。闇を象徴する人物となってしまいましたが、イスカリオテのユダもまた、神様の愛の内にあったということはいえるのだろうと思います。(続く)
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