今回は、18章1~9節を読みます。
闇の中にやって来た人たち
1 こう話し終えると、イエスは弟子たちと一緒に、キドロンの谷の向こうへ出て行かれた。そこには園があり、イエスは弟子たちとその中に入られた。
2 イエスを裏切ろうとしていたユダも、その場所を知っていた。イエスは、弟子たちと共に度々ここに集まっておられたからである。3 それでユダは、一隊の兵士と、祭司長たちやファリサイ派の人々の遣わした下役たちを引き連れて、そこにやって来た。松明(たいまつ)や灯(ともしび)や武器を手にしていた。
イエス様は弟子たちと、エルサレム神殿の近くのゲツセマネの園(ヨハネ福音書は「ゲツセマネ」という表記はしていない)に入られました。既に出て行っていたイスカリオテのユダが、ローマ兵と、ユダヤの宗教指導者たちの下役たちを引き連れて、そこにやって来たのです。
彼らが松明や灯を持っていたことから、辺りは一面暗闇であったと思われます。この暗闇こそが、やって来た人たちのありようを象徴しているのです。他の3つの福音書の並行箇所では、ここでユダがイエス様に接吻(せっぷん)する様が伝えられていますが、ヨハネ福音書にはそれがありません。また、共観福音書には暗闇の強調はありません。ここにも、ヨハネ福音書の独特な視点があるように思えます。
ヨハネ福音書は、その冒頭に「この命は光であった。光は闇の中で輝いている。闇は光に勝たなかった」(1章5節)と記して始まっています。この場合の光とは、イエス様のことです。そして、「闇は光に勝たなかった」のです。ヨハネ福音書では、ユダの接吻が省略され、彼が暗闇の中にいることが強調されて、メッセージが展開されているように思えます。
イスカリオテのユダはどうなったのか
4 イエスはご自分の身に起こることを何もかも知っておられ、進み出て、「誰を捜しているのか」と言われた。5 彼らが「ナザレのイエスだ」と答えると、イエスは「私である」と言われた。イエスを裏切ろうとしていたユダも彼らと一緒にいた。6 イエスが「私である」と言われたとき、彼らは後ずさりして、地に倒れた。
第60回でお伝えしましたが、ヨハネ福音書ではキリストの栄光化が強調されています。この場面も、最終的には捕らえられますが、イエス様が暗闇である彼らに打ち勝つ様を伝えているといえるでしょう。ここで鍵となっているのが、共観福音書にはない「私である」というイエス様の言葉です。
「私である」は、今までにもお伝えしてきましたが、ギリシャ語で「エゴー・エイミ」です。「エゴー・エイミ」は、「私はある」とも訳すことができ、イエス様がご自身を神として顕現される場合に使われる言葉です。ただし、ここでの「エゴー・エイミ」は、「私である」というニュアンスも持ち合わせています。
今回読む18章1~9節には、「エゴー・エイミ」が5、6、8節と3回登場します。6節の「エゴー・エイミ」は5節のそれを受けたものですから、同じニュアンスであり、この2つは「私はある」という神顕現を意味する言葉として読み取れます。この言葉を聞いた人々は、「後ずさりして、地に倒れた」とあります。ですから、そこにいたイスカリオテのユダも地に倒れたのです。
ここで気づかされることは、ヨハネ福音書では、イスカリオテのユダがこの場面以降、登場しなくなることです。マタイ福音書とルカ福音書の続編である使徒言行録では、ユダの最後、つまりその死が伝えられています。それに比べ、ユダの死について伝えていないヨハネ福音書は、何か中途半端な感じがします。
ただ、そこで考えさせられることは、マタイ福音書と使徒言行録ではユダの死に方が違って伝えられていることです。マタイ福音書では自殺(24章3~5節)ですが、使徒言行録では事故死(1章17~18節)です。私たちの多くは「ユダは自殺した」と認識していると思いますが、聖書学においては、実はユダの死因は定まっていません。認められていることは、イエス様の受難史の中でユダもまた死を遂げたということです(荒井献著『ユダとは誰か』72~88ページ)ということです。
だとするならば、ヨハネ福音書が伝えるユダの最後についても、そこでメッセージとして何が伝えられようとしているのかという観点から解釈して良いはずです。私は少し大胆な考え方をしています。
それは、イエス様の「私はある」という神顕現の言葉の前に、イスカリオテのユダは「裁かれた」のだ、というものです。6節の「後ずさりして、地に倒れた」の「倒れた」(ギリシア語はピプトー)は、「死ぬ」「滅びる」という強い意味合いを持った言葉です。ユダはそこで「裁かれた」(「死んだ」ではない)というメッセージが伝えられているのではないかと思うのです。
17章のイエス様の告別の祈りの中で、ユダは「滅びの子」と言われており(12節)、ヨハネ福音書はやはり、ユダを「闇の子」と捉えています。それは、最終的に救いのないものではありませんが、ヨハネ福音書は「信じない者はすでに裁かれている」(3章18節)と、「闇の子に対する裁き」を語っており、それにユダは合致していると思うのです。そのことから論理を展開した私独自の考えです。
ヨハネ福音書で、イスカリオテのユダがここで最後の登場となっていることを、私は以上のように考えています。ユダがどのように姿を消すかは、史実の問題というよりも、それによって伝えられるメッセージに関することだと思うのです。
ヨハネ福音書は、他の福音書に比べてユダの登場回数が多いので、その「結末」が示されてもよいと思われます。「私はある」と言われ、神顕現をなされたイエス様の前で、ユダが「倒れた」ことで裁きが実行された。それが、ヨハネ福音書が伝えるイスカリオテのユダの「結末」なのだと思うのです。
良い羊飼いであるイエス様
7 そこで、イエスが「誰を捜しているのか」と重ねてお尋ねになると、彼らは「ナザレのイエスだ」と言った。8 イエスは言われた。「『私である』と言ったではないか。私を捜しているのなら、この人々は去らせなさい。」 9 それは、「あなたが与えてくださった人を、私は一人も失いませんでした」とイエスが言われた言葉が実現するためであった。
4節で語られた「誰を捜しているのか」が7節で再び伝えられているのは、そこで暗闇の中にいる人たちの答えに対してイエス様が語った言葉、つまり「私で(は)ある」(エゴー・エイミ)の意味合いが違うからだと思います。1回目のエゴー・エイミ(5節と6節)は、「私はある」というニュアンスに取れるもので、前述のように暗闇の中にいる人たちに対する神顕現であったと捉えられます。
しかし、「誰を捜しているのか」という問いへの闇の中にいる人たちの答え「ナザレのイエスだ」に対し、イエス様が語った2回目のエゴー・エイミ(8節)は、むしろ「私である」というニュアンスに取れるもので、それはご自身を引き渡すための言葉だと思います。
その上で、イエス様は「この人々(弟子たち)は去らせなさい」と、弟子たちに危害が及ばないようになさっているのです。それは、「良い羊飼いは羊のために命を捨てる」「私は羊のために命を捨てる」(10章11、15節)という言葉を実践されているのであり、自分が引き渡されても弟子たちは守るということでしょう。
9節では、福音書記者の解説がなされています。そこで言及されているイエス様の「あなたが与えてくださった人を、私は一人も失いませんでした」という言葉には、イスカリオテのユダも含まれていると私は思います。ユダはここでは裁かれましたが、どこかで救いが与えられる――それがどこかは分かりませんが――と私は考えています。(続く)
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