今回は、18章10~14節と19~24節を読みます。間の15~18節は、「ペトロの否認」として、25~27節と合わせて、次回読むことにします。
父がお与えになった杯
10 シモン・ペトロは剣を持っていたので、それを抜いて大祭司の僕に打ちかかり、その右の耳を切り落とした。僕の名はマルコスであった。11 イエスはペトロに言われた。「剣を鞘(さや)に納めなさい。父がお与えになった杯は、飲むべきではないか。」
舞台はゲツセマネの園ですが、ここでイエス様は当局に引き渡されます。マタイ、マルコ、ルカの共観福音書では、この園での夜を徹しての祈りの後に引き渡されたことが、並行記事となって伝えられています。イエス様はその時、「この杯を私から取りのけてください。しかし、私の望みではなく、御心のままに」と、苦悶(くもん)しつつ祈られたことが、それぞれの共観福音書で伝えられています。
ヨハネ福音書は、この苦悶の祈りを伝えていませんので、共観福音書とは違った記事になっています。しかし、ペトロが大祭司の僕に打ちかかった後、イエス様が彼に語られた「剣を鞘に納めなさい。父がお与えになった杯は、飲むべきではないか」という言葉の中には、共観福音書で伝えられている苦悶の祈りと共通するものがあります。それが「杯」(ギリシア語はポテーリオン)という言葉です。
杯という言葉は、日本語においては「祝杯」「苦杯」などと比喩的に使われる場合があります。実は旧約聖書にも、「私の手から憤りのぶどう酒の杯を取り」(エレミヤ25章15節)と、杯を比喩的に描写しているところがあります。これは、神様のご意志を比喩的に表現しているものです。このゲツセマネの園においてイエス様が杯と言われたのも、父なる神様のご意志を比喩的に表現しているといえましょう。それは、十字架刑による死という苦い杯でした。
上述のように、共観福音書が伝えるところでは、イエス様は「この杯を私から取りのけてください」と祈っておられますが、マタイ福音書では、その後にイエス様の2度目の祈りが伝えられています。それは、「父よ、私が飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、御心が行われますように」(26章42節)というものです。最初の祈り「この杯を私から取りのけてください」から見ると、父なる神様に委ねる内容になっています。
さらに、ヨハネ福音書が伝える「剣を鞘に納めなさい。父がお与えになった杯は、飲むべきではないか」が、共観福音書の伝えるゲツセマネの祈りに続くものであるとすれば、その時以上に、父なる神様にご自身を委ねられていることを読み取れると思います。
アンナスのところに連行される
12 そこで一隊の兵士とその大隊長、およびユダヤ人の下役たちは、イエスを捕らえて縛り、13 まず、アンナスのところへ連れて行った。彼が、その年の大祭司カイアファのしゅうとだったからである。14 一人の人が民の代わりに死ぬほうが好都合だと、ユダヤ人たちに助言したのは、このカイアファであった。
一隊の兵士たち(警察官のような役割を任されていた人たち)は、イエス様を捕縛します。そして、アンナスのところに連れて行きます。アンナスは、紀元後6~15年にユダヤの大祭司を務めていた人です。この引き渡しの時を含むその後の紀元後18~36年は、アンナスの娘婿であるカイアファが大祭司でした(G・R・オデイ著『NIB新約聖書注解5 ヨハネによる福音書』429ページ)。
けれどもこの時、アンナスは依然としてユダヤの宗教界で実権を持ち続けていたようです。ですから、兵士たちはまずアンナスのところにイエス様を連れて行ったのでしょう。しかし、ヨハネ福音書の記者は、ここでカヤパが以前に語った言葉を持ち出し、ここに加えています。それは、11章のラザロの復活の記事の後で、以下のように伝えられています(第46回参照)。
「彼らの中の一人で、その年の大祭司であったカイアファが言った。『あなたがたは何も分かっていない。一人の人が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済むほうが、あなたがたに好都合だとは考えないのか』」(11章49~50節)
これは、カイアファが大祭司として、神の経綸(けいりん)を人々に語ったものです。ヨハネ福音書においては、宗教指導者たちはイエス様に敵対する人たちとして伝えられていますが、11章のこのカイアファの言葉は、神様の側からのものです。このことは、「神様のくすしき御業がなされた」と言う他にないと思います。それが、今回も繰り返されて強調されているのです。
これは、この後に起こること、すなわちイエス様が十字架にかけられることを、ヨハネ福音書の記者が「神様のみ旨」として捉え、読者に伝えているということです。イエス様ご自身も、既に「父がお与えになった杯」と、「神様のみ旨」として受け止めていますが、ヨハネ福音書の記者も、カイアファの言葉を繰り返すことによって、十字架が「神様のみ旨」であったことを強調したのでしょう。
アンナスの尋問
19 大祭司はイエスに、弟子のことや教えについて尋ねた。20 イエスはお答えになった。「私は、世に向かって公然と話してきた。私はいつも、ユダヤ人が皆集まる会堂や神殿の境内で教えた。隠れて語ったことは何もない。21 なぜ、私に尋ねるのか。私が何を話したかは、それを聞いた人々に尋ねるがよい。その人々が私の話したことを知っている。」
ここで「大祭司」と言われているのは、時の大祭司カイアファのことではなく、アンナスのことです。自分は退いて娘婿を大祭司に据えたものの、依然として大祭司の実権を保っていたということでしょう。ひょっとしたらその力はカイアファをしのいでいて、カイアファは傀儡(かいらい)であったのかもしれません。実権力を持つアンナスとイエス様が相対したということを、ヨハネ福音書の記者は伝えたかったのだと思います。
アンナスは質問をしますが、イエス様は「それを聞いた人々に尋ねるがよい。その人々が私の話したことを知っている」とだけ答えています。ここでは、アンナスというこの世の権力者が、イエス様と相対したときに、どういう位置付けであったかが伝えられていると思います。
世に勝っているイエス様
22 イエスがこう言われると、そばにいた下役の一人が、「大祭司に向かって、そんな返事のしかたがあるか」と言って、イエスを平手で打った。23 イエスはお答えになった。「何か悪いことを私が言ったのなら、その悪いところを証明しなさい。正しいことを言ったのなら、なぜ私を打つのか。」 24 アンナスは、イエスを縛ったまま、大祭司カイアファのもとに送った。
アンナスに対する返答を聞いた下役は、それをいさめる言葉と共にイエス様を平手で打ちます。しかし、そこでもイエス様は「正しいことを言ったのなら、なぜ私を打つのか」と、毅然(きぜん)とした対応をされています。このようなことは、イエス様が父なる神様のお与えになる苦い杯を受けておられることを意味する一方で、16章の最後で伝えられている「私はすでに世に勝っている」という言葉を、実際に世に対して示されているのだと思います。
そして、イエス様は縛られたまま、アンナスの娘婿である大祭司カイアファのところに送られます。(続く)
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