今回から5回にわたって、18章28節~19章42節を読みます。ここは、イエス様が十字架上で命を捨てられる大事な場面ですが、終始ローマのユダヤ州総督ポンテオ・ピラトが関連していますので、それを副題とします。総督とは、属州を治める統率者のことです。
ところで、8章12節~9章7節の「私はある」や、10章40節~12章19節の「ラザロの復活」もそうでしたが、サブテーマによって話が貫かれている場合、集中構造になっていると思われます。そのため、私なりに集中構造分析を試みてみたところ、後述のように抽出することができました。
別のコラム「コヘレト書を読む」の第9回でお伝えしましたが、集中構造分析とは、中核を中心にして対称に書かれた集中構造の文章を分析するものです。私たちが文章を書くときは、最初に事の起こりを書き、その展開を記し、最後に話をまとめる場合が多いですが、聖書の中には中核から対称部へと進んでいく、集中構造による文章が多いのです。
集中構造の文章を分析することの利点は、1)一つの話の中心的メッセージが何であるかが分かる、2)対称箇所を比べて読むことによって、今まで分からなかったことを発見することがある、などがあります。また、分析は分析者によって差異があり、執筆者が実際にどのような構成を意図したのかは、執筆者本人でしか分からないと思います。
それでは、私が行った18章28節~19章42節の集中構造分析を提示します。各箇所にテーマを付け、そのテーマに沿った聖句を併記しました。各箇所は、アルファベットのAから順に進行させ、後半は逆進行させていますが、中核はXとする慣例があるので、そのようにしています。
ピラトの総督官邸へ
前述したように、5回にわたって18章28節~19章42節を、「ポンテオ・ピラト」を副題として執筆しますが、上記の集中構造分析を利用して、段落分けや解説を行っていきます。今回は、18章28節~38節aをお伝えします。
28 人々は、イエスをカイアファのところから総督官邸に連れて行った。明け方であった。しかし、彼らは官邸に入らなかった。汚れないで過越の食事をするためである。
前々回、アンナスがイエス様を大祭司カイアファのところに送ったことまでをお伝えしました。共観福音書は、カイアファの公邸で行われたイエス様の裁判を詳述しています。しかし、ヨハネ福音書はそれを伝えていません。明け方に、カイアファからピラトのところに移送されることから話が始まっています。
ピラトは、紀元26~36年にユダヤ州に派遣されていたローマの総督です。ユダヤ人が十字架刑、すなわち死刑を執行するためには、総督の許可が必要でした。それでユダヤ人たちは、イエス様を十字架にかける許可を求めるために、総督官邸にやって来たのです。
ここで、「汚れないで過越の食事をするため」、ユダヤ人たちがピラトの官邸に入らなかったことが伝えられています。これは集中構造分析によるならば、19章40節の「彼らはイエスの遺体を受け取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従い」に対応しています。
集中構造分析で聖書を読むことは、こういうことが読み取れることに意義があると思います。ここでは「習慣」が強調されています。ユダヤ人は習慣にとらわれる民族であり、それが過度になっていたものが「安息日厳守」でしょう。このことを巡るイエス様との対立は、4つの福音書の中にしばしば見られるものであり、ここでも表出しています。
行ったり来たりするピラト
29 そこで、ピラトは彼らのところに出て来て、「この男に対してどんな訴えを起こすのか」と言った。30 彼らは答えて、「この男が悪いことをしていなかったら、あなたに引き渡しはしなかったでしょう」と言った。31 ピラトが、「あなたがたが引き取って、自分たちの律法に従って裁くがよい」と言うと、ユダヤ人たちは、「私たちには、人を死刑にする権限がありません」と言った。
上記のユダヤ人の習慣は、その地の最高権力者である総督ピラトにさえも影響を与えています。ピラトは官邸の中からわざわざ出入りをして、彼らとの交渉に応じています。総督たるピラトが、なぜそこまでのことをしたのでしょうか。私は、これはピラトが政治屋であったからだと考えています。彼は、人心を見るのに長けている人物だったのです。
そして、自分ではイエス様に罪を見いだせなくても、ユダヤ人たちの声に押される形で、十字架刑を宣告することになるのです。使徒信条の中に、「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」というくだりがありますが、罪を見いだせなくても大衆の声よって罪を被せることがあり、イエス様はそのように無実の罪を着せられ、十字架を背負われたのです。
成就としての十字架
32 それは、ご自分がどのような死を遂げることになるのかを示して語られた、イエスの言葉が実現するためであった。
これは、十字架に上げられて命を引き取ることについて、イエス様が予告していたことを言っているものです。例えば、8章28節の「あなたがたは、人の子を上げたときに初めて、『私はある』ということ、また私が、自分勝手には何もせず、父に教えられたとおりに、話していることが分かるだろう」という言葉を受けてのことであると思いますが、この箇所は、福音書記者による「説明句」であることが読み取れます。
集中構造分析を行うことよって明らかにされる、この箇所と対応する箇所は19章36~37節ですが、そこは旧約聖書の引用としての福音書記者の「説明句」になっています。このことからも、福音書記者が集中構造によって、今回分析した箇所を執筆していることが明確になるともいえましょう。
御国の王であることと真理
33 そこで、ピラトはもう一度官邸に入り、イエスを呼び出して、「お前はユダヤ人の王なのか」と言った。34 イエスはお答えになった。「あなたは自分の考えで、そう言うのか。それとも、ほかの者が私について、あなたにそう言ったのか。」 35 ピラトは答えた。「私はユダヤ人なのか。お前の同胞や祭司長たちが、お前を私に引き渡したのだ。一体、何をしたのか。」
36 イエスはお答えになった。「私の国は、この世のものではない。もし、この世のものであれば、私をユダヤ人に引き渡さないように、部下が戦ったことだろう。しかし実際、私の国はこの世のものではない。」
37 ピラトが、「それでは、やはり王なのか」と言うと、イエスはお答えになった。「私が王だとは、あなたが言っていることだ。私は、真理について証しをするために生まれ、そのために世に来た。真理から出た者は皆、私の声を聞く。」 38a ピラトは言った。「真理とは何か。」
19章33節~38節aは、集中構造分析においては19章28~35節と対応していますが、この対応はとても大切です。ヨハネ福音書の、ひいては新約聖書の重要ドグマ(教理、教義、教条)を読み解くヒントが与えられている対応箇所といえます。
集中構造分析の利点の2番目として、対称箇所を比べて読むことによって、今まで分からなかったことを発見することがある、ということを前述しました。ここではピラトが、イエス様に対して「真理とは何か」という質問を投げかけていますが、イエス様はそのことにお答えになってはいません。
これは言い換えると、福音書の読者にも同じ質問が投げかけられていることでもあります。ですから私たちは、この問いに対する答えを探すことが大切なのだと思います。まるで宝探しのようになりますが、私は、聖書のこの問いかけは、十分に楽しんで良いものであると考えています。
このように、対称箇所を精読することで答えを見いだすことは可能ですが、必ずしもそれが唯一の答えというわけではありません。次回以後、そのことも考えながら、次の箇所を読んでいきたいと思います。(続く)
◇