ピラトはイエスを捕らえて、むち打ちにした。(ヨハネ19:1)
イエスは、自身の受ける十字架刑は父なる神のご計画だと受け入れ、覚悟しました。罪を犯さなかった神の御子イエスは、私たちの救いのために、私たちの罪の身代わりとなり、極刑である十字架刑にかかりました。
当時、ローマが処刑するために用いた最も残酷で、侮辱的な極刑が十字架刑であり、最悪の死を迎えるものでした。
むち打ちに使われた革のむちには鉄の鋭い刃が付いており、イエスの肉体を引き裂き、血が飛び散りました。それを耐えた後は、自分のかかる重い十字架の木を、処刑場所まで持ち運びます。その十字架に、裸にされてくくり付けられ、両手足をくぎで打ち付けられます。
息が絶えるまでには、かなりの時間がかかります。最後まで苦しみ抜くという非常に過酷なものでした。
「彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する」(イザヤ53:11)
イエスは罪を犯したことのない神の御子であり、天と地を造られた創造主なる神です。その罪のない御子が、罪を犯して滅んでいくこの世の人々を救うために、人々の罪の身代わりとなって十字架で死なれました。
死んで墓に葬られ、3日目に死からよみがえり、信じる者への救済のご計画を実現されました。イエスによる罪の贖(あがな)いを信じた者は救われて、永遠のいのちを得ます。
イエスは、私たちが天国に入れるように、この全ての苦しみを経験されました。このイエスの愛よりも大きな愛はありません。
「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません」(ヨハネ14:6)
「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです」(ローマ6:23)
私たちがこの世の呪いと、罪の報酬としての死と病から救われるのは、ただ、このイエスを信じる信仰によるのです。
「神は愛です」(1ヨハネ4:16)
私たちが先に神を愛したのではなく、世界の創造の初めから神が私たちを愛し、ご計画の通りに御子キリストがこの世に来られ、命を懸けて私たちを愛してくださいました。これほどまでに普遍的で、無条件で、犠牲的な愛はありません。
その神の愛を受け取ることによって、私たちは人を愛し、赦(ゆる)すことができます。キリストの似姿に変えられていくのです。
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