ピラトは、そのとき、イエスを、十字架につけるため彼らに引き渡した。(ヨハネ19:16)
イエス・キリストは日々素晴らしい奇跡を行い、群衆から絶大な評価と人気を得ていきました。大祭司たちはイエスに対する嫉妬心から殺意を抱き、イエスを葬り去る機会を探していました。
そんな中、ユダの裏切りによって、彼らはイエスを捕まえることができました。裁判にかけ、偽証によってイエスを、神を冒瀆(ぼうとく)した罪人としました。当時ユダヤの地域を支配していたローマ帝国の総督ピラトにイエスを引き渡し、ローマの処刑方法である十字架刑につけるよう要求しました。
「ピラトは、彼らがねたみからイエスを引き渡したことに気づいていたのである」(マタイ27:18)
ピラトは、イエスに罪を見つけることができませんでした。大祭司たちがねたみによってイエスを引き渡したことを知っていましたが、群衆の暴動を恐れ、罪のないイエスを十字架刑につけることを受け入れたのです。
そのようにして神の御子キリストは、罪がないにもかかわらず、十字架刑にかかることになりました。
むち打ちの刑による出血と痛みの中、処刑場までの道のりを、自らがかかる重い十字架をかついで歩まなければなりませんでした。それは、大変な痛みと苦しみを伴うものでした。それでも十字架の道に従順されたイエスの姿に、世人を愛する神の愛を知ることができます。
多くの人々にとって、イエスが神の御子キリストであるかどうかは、それほど重要なことではないかもしれません。しかし、神の国を求める人々にとっては、イエスがキリストであるかどうかはとても重要なことです。聖書を通してイエスによる神の愛と真理を知ることは、永遠の救いに関わる大切なことなのです。
自己保身や自尊心を避け、聖書にあるイエスの言葉に聞き従うことです。主が通られた十字架の道に、信仰によってついていくとき、私たちは日々キリストの似姿にされ、栄光を神にお返しする者とされるのです。
どうか平和の神イエスが、どんなときにも皆さんに良くしてくださいますように。
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