神を愛するとは、神の命令を守ることです。(1ヨハネ5:3)
聖書は、神の愛について語ります。その愛は、キリストを通して現されました。そして「わたしがあなたを愛したように、あなたもわたしを愛するか」と問われます。
神を愛するとは、神の命令を守ることです。聖書には「第一に神を愛し、第二に隣人を愛しなさい」とあります。私たちが神の命令に従うかどうかを、神はご覧になっています。それは、隣人との平和を保ち、愛により隣人の徳を高めることであり、悪をされても仕返しをせず、正しく裁かれる神に委ね、神に期待することでもあります。
時として試練や困難に遭い、問題が起きたりもしますが、聖書は、神の命令を守り従う信仰によってこの世に打ち勝つことができると約束しています。信仰により、さまざまな問題や試練、困難に勝利することができます。
神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません。なぜなら、神によって生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。(1ヨハネ5:3〜5)
キリストを裏切ったユダは、悔い改めて神に帰ることを選択しませんでした。神よりも自己を中心とした感情にとらわれてしまった結果、自分の命を失いました。一方ペテロは、イエスを3度否定して裏切りましたが、男泣きし、心から悔い改めてイエスと向かい合い、キリストを「愛します」と告白しました。
ここにユダとペテロの、神を愛する信仰の違いが出ています。ペテロは悔い改めて神と向き合ったことにより、神の御業を現す者となりました。「主よ、お語りください、僕は聴きます」という神への姿勢が必要です。
「あなたはわたしに従いなさい」と言われたイエスについていくことで、信仰によって勝利していく人生へと変換されるのです。私たちは、栄光から栄光へと主の似姿に変えられていきます。与えられている聖霊により神の愛が私たちの心に注がれています。神から与えられた希望は、失望では終わりません(ローマ5:5)。
ペテロはこの後、神の命令を守り切り、殉教することによって信仰を全うしました。神の栄光を現し、聖霊による永遠の御国の命を得ました。希望が失望に終わることのない、勝利の人生でした。
ペテロの単純で純粋な信仰を見習ってキリストについていき、最後の時が来るまで従うなら、私たちも信仰による勝利者として御国に凱旋する者となります。
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