彼らはイエスを受け取った。そして、イエスはご自分で十字架を負って、「どくろの地」という場所(ヘブル語でゴルゴタと言われる)に出て行かれた。(ヨハネ19:17)
十字架刑は、ローマ時代に行われていた最も残酷な極刑でした。犯罪人とされた者は、自分のかかる十字架を担いで処刑場に行きます。人々への見せしめの刑でもあるので、十字架を負って処刑場に向かう道中では、群衆からののしられたり、罵倒されたり、あざけられたりします。
罪を犯したことのないイエスは、私たちの罪を身に負って、十字架を背負い、父なる神の御心に従われ、実に死に至るまで従順されました。ここに、イエスが私たちに示した信仰と愛があります。
あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。(1ペテロ2:21〜24)
キリストは、私たちのために苦しまれ、死なれました。そのキリストが私たちを召した理由は、私たちがキリストご自身の示された信仰の模範に従って罪から離れ、信仰によって義人とされて、キリストの打たれた傷によって癒やされ、神に祝福される人生を歩むためです。
それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。(マタイ16:24、25)
イエスの弟子である私たちは、自分を捨てて、自分の十字架を負ってイエスについていく者へと変えられていきます。神が望んでいるのは、私たちが御言葉を聞いて罪を悔い改め、御霊の実を結び、キリストの似姿へ作り変えられて天の御国に行くことです。
人生の結果は、キリストに従い、どういう死に方をするかにあります。やがて天の御国で神と共に永遠に過ごすことに希望があるのです。
◇