彼らはそこでイエスを十字架につけた。イエスといっしょに、ほかのふたりの者をそれぞれ両側に、イエスを真ん中にしてであった。(ヨハネ19:18)
罪を犯したことのないイエス・キリストは、私たちの罪の身代わりに苦しみを受け、十字架にかかり、天の父の御心に従順され、私たちに信仰の模範を示されました。
この十字架上でイエスの両側にいた一人は、自分の罪を告白して救われ、パラダイスに行きました。このことは、神を信じて信仰告白した私たちにも、御国に入れる希望があることを示しています。
私たちが神に召されたのは、信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さずに、キリストが歩まれた足跡について行くためです。神は、私たちが信仰により義人とされ、罪からくる死から逃れて祝福された人生を歩むことを望んでおられます。
あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。(1ペテロ2:21〜25)
イエスは、人にののしられてもののしり返さず、善い行いをして試練に遭い、苦しめられても忍耐し、正しく裁かれる神に全てを委ねてお任せしました。
信仰の模範を示してくれた「道、真理、命」であるイエス・キリストに倣い、信仰による希望を持ってこの地上を歩んでいくなら、やがては天の御国へ到達します。神にあって、朽ちることのない永遠の命を得ます。
自分の善い行いや自分の義によらず、ただ神を信じる信仰の義により救われて天の御国へ入れるという、神の摂理に期待し、感謝します。
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