イエスが、ヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、・・・東方の博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。・・・」それを聞いて、ヘロデ王は恐れ惑った。・・・こう言って彼らをベツレヘムに送った。「行って幼子のことを詳しく調べ、わかったら知らせてもらいたい。私も行って拝むから。」・・・すると、・・・東方で見た星が彼らを先導し、ついに・・・母マリヤとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝んだ。そして、・・・黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた。(マタイ2:1~12)
悪や罪の力がはびこる世の中で「闇の中に輝く光」であるイエスの愛と救いを伝えていくことは、私たちにとって大切な使命です。クリスマスは、クリスチャンではない人々にとっても、明るく楽しいイメージのある時です。救い主が与えられたのですから、恵みであることに間違いはありませんが、聖書が語るイエスの誕生物語は、ほのぼのとした温かいクリスマスだけが展開していくかというと、そうではなく、リアルな歴史上の出来事として、暗い陰の部分や人間的な嫌らしさも語っているのです。
今日の聖書箇所は、まさにその部分です。3つのポイントから確認しましょう。
1. イエスの誕生物語に折り重なる明暗!
歴史の中でのイエスの誕生には、明暗が描かれています。東方の博士たちが、星の光から世の救い主の誕生を察知し、救い主を探し求めてエルサレムにやってきました。これは「明」の部分です。「暗」の部分もこの物語には出てきます。自分の預かり知らぬところで「ユダヤ人の王が生まれた」ことにヘロデ王は恐れ惑い、恐れのあまり、博士たちに王子を見つけさせて殺してしまおうとたくらむのです。
しかし、博士たちがヘロデ王に誕生の場所を知らせなかったために、この後ヘロデ王は、ベツレヘムの2歳以下の男子を皆殺しにしてしまいます。クリスマスには、博士たちだけでなく、罪人の物語があるのでした。
2. 私たちの心の中での明暗の思い!
クリスマスの出来事を、過去の出来事としてではなく、自分自身の心の明暗としても捉えましょう。つまり、私たちの心にも二面性があることを認めましょう。神の愛、命につながる「明」の部分がある一方、人を恨んだり、自己嫌悪に陥ったりする「暗」の思いも同居しているかもしれません。
表面上は愛で満たされているつもりなのに、心の奥底にヘドロのような汚い罪が堆積していることはないでしょうか。私たちの心の中に「明暗」の思いが同居していることに気付いて、それを認める者でありましょう。
3. 主への生きた礼拝と心を込めたささげもの!
「明」と「暗」が同居する出来事の中で、東方の博士たちはイエスを探し出し、礼拝し、最高の贈り物をささげてイエスを主とあがめたのです。その贈り物は、どれも庶民には手の出せない王にふさわしいものでした。
「黄金」は、まさに王にふさわしいもの、「乳香」は香の中でも最高のかぐわしい香り、非常に高価で神と私たちをつなぐ祈りの象徴でした。「没薬」は、死と「永遠の命」の象徴です。赤ちゃんをお祝いするときにささげられた「没薬」、それはイエスのご生涯で避けられない「十字架の死」とキリストのもたらす「永遠の命」の象徴でした。
このクリスマス、心の中の「明」を選び取りましょう。イエスこそ私の救い主として、心の王座にお迎えし、感謝し、礼拝し、ささげるべきものをイエス様におささげしましょう!
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