あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。(マタイ5:14)
イエスは答えられた。「・・・神のわざがこの人に現れるためです。わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行わなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます。わたしが世にいる間、わたしは世の光です。」・・・彼は答えた。「イエスという方が、泥を作って、私の目に塗り、『シロアムの池に行って洗いなさい』と私に言われました。それで、行って洗うと、見えるようになりました。」(ヨハネ9:3~12)
1872年10月31日は、日本で初めてガス灯がともった日です。150年前の人々にとって、時代の流れを指し示すようなガス灯の明かりは、闇を照らす画期的な光だったのだろうと思います。
そう思ったときに、私たちは世の光として生きるべきだと教えられていることを思い出しました。最近の世の中を見ると、戦争や経済の困窮、人間関係の分断など、暗い世の中であると感じざるを得ません。だからこそ、この暗闇の世にあって私たちは光を放つ者になりなさいという神様の教えを忘れてはならないのです。
では、私たちはどのように光を照らせばよいのか。今日は、この有名な癒やしの物語から学びます。生まれつき盲目の物乞いの目にイエス様が泥を塗り、シロアムの池に行って洗い流しなさいと言われて、彼がそのようにすると、目が見えるようになったのです。
ここから4つのポイントを見ていきましょう。
1.「世の光」である主キリストを知ろう
このヨハネの9章5節では、イエス様ご自身が「わたしは世の光です」と語っておられます。私たちが力んで、特別な人間になろう、世の光となろうともがくのではなくて、そもそもイエス様が世の光であるということを知りたいと思います。
私たちが良いことをして良い人になるという前に、世の光であると宣言できるお方がおられることを知りましょう。
2. 主キリストの恵みの当事者となろう
イエス様は世の光であるということを、頭で理解するだけで終わることがないようにしましょう。
イエス様は、目が見えない人に光を与えられました。目が見えないとは、光のない、暗闇の状態です。それは単なる視野の問題ではなく、人生の問題です。しかし、目の見えない者にイエス様は光を与え、彼は目が見えるようになりました。
ですから、私たちも人ごとではなく、世の光であるイエス様によって、イエス様の恵みをじかに体験して、主の恵みの当事者になろうではありませんか。
3. ありのままに証ししよう
目が癒やされた物乞いは、周りの人に自分の目が見えるようになったこと、そして、なぜ目が見えるようになったのか、起こった事実をありのままに語りました。神様の恵みの御業を頂いた私たちも、この物乞いのようにキリストによって与えられた事実をありのままに伝える者でありたいと思います。
私たちは証しをしようとするとき、特別な勉強や準備が必要だと思い込みます。しかし、私たちが世の光としての仕事をしていくときに、変に肩に力を入れ過ぎる必要はありません。むしろ、私たちは何が起こったのかを素直に語る者でありたいと思います。
4.「世の光」として用いられよう
盲人は人々から、イエスという人はどこにいるのかと聞かれたとき、素直に知りませんと答えました。全てが分からなくても構わないのです。イエス様のことを自分の知り得る範囲で、そのまま人々に伝えて、私たちも世の光として用いられる者でありたいと思います。
そのために、私たちが受けたはずの恵みをいつでも語れるように準備しておく必要があります。世の光として用いてくださいと願う信仰を大事にしていこうではありませんか。
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