昔から字が汚いと言われた私は、白い半紙に筆で文字を書くことが常に苦手だった。字の大きさを考えながら、しかも力の入れ具合でできる濃淡や線の太さの違いを自分でコントロールすることができないからだ。
一方、これがとてもうまい友人がいた。彼の書いた字は彼そのものであり、その時の心情を作品が見事に表していた。うらやましくも、しかし自分には関係ないと思うことで、劣等感を抱かないようにしていたことを今でも思い出す。
さて、本作「線は、僕を描く」は、私にとってできるならスルーしたい題材だった。あまり興味がないというより、触れられたくない過去(字が汚い、習字を習わされていたけど効果がなかった、など)を思い出させられるような気がしたからだ。
だが、そういった苦い感情よりも、本作のタイトルにより引かれる自分がいた。「本来、逆だろ?」ということだ。普通は「僕は、線を描く」である。しかし本作のタイトルは主語と修飾語が入れ替わっている。「線(これが水墨画のこと)」が「僕を」描き出すというのだ。
もう一つ、本作を鑑賞しようと思えた理由は、小泉徳宏監督作品であること。小泉監督は、かつてレビューでも取り上げた「ちはやふる」3部作を作った方である。競技かるたという特殊な世界を見事に普遍化し、スリリングな「スポーツ」として私たちに提示してくれた。
同時に「競技かるた」というメタファー、「百人一首」というメタファーを用いながら、高校生の淡い恋心や、人間として未知なるものに一歩踏み出すときに奮い出す勇気の源泉を色彩豊かな映像で魅せてくれた。この監督作品なら、外れはないんじゃないか。その思いでチケットを買い、劇場に足を運んだ。
そして2時間後・・・。今年のベストクラスの感動に打ち震えている私がシートにいた。見てよかった。本当にそう思った。本作のテーマは映画の冒頭に示される。「(人は)何かになるんじゃなくて、何かに変わっていくものなのかもね」と語られる。そのままの作品であった。
現代の私たちは、自分が寄る辺なき存在であることを肌感覚で知っている。かつては夢や希望にあふれた成長期を過ごした者もいるだろうが、やがて社会に放たれる予兆を感じる時期(本作では大学生)になると、自らに問わざるを得ない。「自分は何者か」と。
そして、その答えが見つからないまま無為に過ごした時間に対して、清算を迫られる時がくる。その清算要求がいきなりであればあるほど私たちは戸惑うし、「無為に過ごした」との自覚を後から覚えるとき、私たちは過去の自分を呪うことになる。「本当はあの時にこうすべきだった」と・・・。
大学生、青山霜介(横浜流星)は、そんな罪意識を抱えながら日々を生きていた。そしてその「痛み」を忘れるほど、再び「無為な日々」へと逃げ込んでいたのである。しかしそんな彼の閉ざされた心の扉に、ノックするものが突如出現した。それが「千瑛」と記された水墨画であった。
そこから彼の人生が突然変化していく。なぜか水墨画の大家、篠田湖山(三浦友和)に気に入られ、水墨画教室の生徒(実質は弟子)として、初めて半紙に筆を走らせることになる。やがて彼はそこで「本当の自分」と対峙する。そして本作のタイトルになる「線は、僕を描く」という境地に達するのである。
見終わって、やはり小泉監督のメタファーは一流であると確信した。これは見る側が自らの人生や仕事、そして生きざまを重ねることで、いつしか「自分の物語」と変えられていくことになる。
例えば私の場合、牧師として毎週教会で説教することをなりわいとしている。つまり毎週何本か、説教を「作る」ことになる。毎週毎週、とにかく説教を生み出すことは大変な作業となる。
しかしある瞬間、この自ら生み出した(と思っている)説教が、私に対し語りかけてくることがある。自らの姿を映す鏡のような役割を、神の言葉である聖書が果たしてくれるのである。
さらに、映った私の姿が鏡(説教)の中で変わっていくことも体験する。それはまるで自分が「説教によって作り変えられた」かのような体験である。よく先輩牧師がおっしゃっておられた、「説教は作るのではなく、与えられるもの」とはこういう感覚であったのか・・・。そう思わされることが時々ある。
本作は、霜介が水墨画に出会い、筆を取って線を描くことで自分を見いだし、見いだされた自分が今度は筆によって白い紙の上に描き出されるまでを物語っている。それによって、彼は「何かになったのではなく、何かに変化する」自分を見いだす。この主客逆転が心地よい感動を私たちに与えてくれる。
実は、私たちが神を信じることもまた、同じ過程を通ることになる。神の前に立つ人間は、皆この「逆転」を体験し、さらに神を愛するようになっていく。
見終わって、次の聖句が浮かんできた。
「あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました」(ヨハネ15:16)
本作にはキリスト教的な要素はほとんど出てこない。しかし物語全体をメタファーと捉えるなら、クリスチャンが鑑賞することで、自身の信仰やクリスチャンとしての日常生活を再確認する至福のひとときとなるであろう。
■ 映画「線は、僕を描く」予告編
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