「スーパーヒーロー映画花盛り」のハリウッド界に、真打ち登場とばかり殴り込みをかけてきたのが、シルベスター・スタローン。1970年代から80年代にかけて、「ロッキー」シリーズで主人公ロッキー・バルボアを演じて名をはせたスタローンは、ベトナム戦争の悲哀を情感豊かに演じた「ランボー」シリーズでも成功を収め、一躍アクションスターの仲間入りを果たした。
90年代は、シュワちゃんことアーノルド・シュワルツェネッガーと人気を二分。その後、長期の低迷期を迎えるが、2010年代に「エクスペンダブルズ」シリーズで一気に返り咲いた。まさにロッキー・バルボアさながらのハリウッド人生を体現した人気スターである。
そんな彼は、スーパーヒーロー映画には苦い思い出がある。1995年に主演した「ジャッジ・ドレッド」という作品が大コケ。当時の低迷期を象徴する作品となってしまったのである。
やがてマーベル映画の「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー」の続編に、チョイ役で登場することはあったが、総じて、荒唐無稽なスーパーヒーロー映画とは縁のないキャリアを積み上げていった。
しかし2022年8月、そんな彼が久しぶりにスーパーヒーロー映画に主演。しかも、バルボア・プロダクション(ロッキー・バルボアにちなんだネーミング!)という映画製作会社を立ち上げるほどの熱の入れようだというのだから、これは無視できない。アマゾン・プライム・ビデオで独占配信ということもあり、早速視聴してみた。タイトルは「サマリタン」。
かつてスーパーパワーを持つ双子が世に誕生した。大人になった彼らは、同じような怪力を持ちながら別々の道を歩むようになっていく。一人は「サマリタン」と名乗り、市井の人々を自警団として守る正統なスーパーヒーローとなっていく。「サマリタン」とは「サマリア人」という意味。聖書の「善きサマリア人」がモチーフとなっている。
一方、もう一人は自分たちを異端視した人々への復讐(ふくしゅう)を誓い、「ネメシス」(ギリシャ神話の神々の一人、人間に幸・不幸を分配する神)と名乗り、悪事に手を染めていく。やがて両者は対峙(たいじ)することとなり、激しい戦いの火ぶたが切って落とされる。
一般市民を巻き込む一大合戦となったこの戦いで、サマリタンはネメシスを倒し、街に平和をもたらした。しかし戦いの痛手で、サマリタンもまた炎に包まれて命を落とした、と多くの人々は思ったのであった。
しかし、姿を消したスーパーヒーローたちの生存を願う者たちが少なからず存在した。彼らはまだサマリタンがどこかで生きていると信じていたのである。
それから25年後、13歳の少年サムは、謎めいた引きこもりのスミス老人(シルベスター・スタローン)と出くわす。絡まれた不良たちからスミスによって助け出されたサムは、この老人こそが正体を隠した伝説の人物(サマリタン)ではないかと疑うようになっていった。
ほどなくして街では犯罪が増加していく。サムはスミスを説得し、街を破滅から救ってくれるよう願うのだが――。
物語は、2人のスーパーヒーローの全盛期から25年後を描いている。それはまるで、「スター・ウォーズ」シリーズでいうなら、ジェダイ全盛期後に生まれたルーク・スカイウォーカーの時代に、ジェダイの復活を熱望するようなものである。人々の中に「サマリタン」というヒーローイメージが独り歩きし、抑圧からの解放を願う貧しき人々の希望として、彼の再来(または復活)が乞われているのである。
人々が希望を願うのは、現実の闇がより深くなっているからに他ならない。登場人物の多くがサマリタンの登場を期待し、そこに希望を抱く。
一方で、敵役となる犯罪組織のボスは、ネメシスへの憧れを隠さない。それどころか、ネメシスが武器として用いていた巨大ハンマーを警察の保管庫から盗み出し、仮面をかぶり、自らを「ネメシス化」させていく。サマリタンを願う声が高まるほど、ネメシスを求める声も高まっていくという流れだ。
彼らにとっての「善きサマリア人」とは誰か。そして「善き」とはどういう意味なのか。これが、サムという13歳の少年の目線で語られていく。
彼が目を付けたスミスは果たして、「サマリタン」なのか。それとも単に腕っぷしが強い「老人」でしかないのか。映画としては、「Who is he?(彼は何者か?)」という謎で、一気に観る者を引っ張っていく。そのけん引力はなかなかのものである。
しかし観終わった後、よく考えてみると、実はイエスが語った「善きサマリア人」の例え話と同じ展開であったことに気付かされる。それも狙って本作を作っていたのだとしたら、これは幅広い意味での「キリスト教映画」とカテゴライズしてもいいだろう。それくらい見事なオチが付いている。単なる「Who is he?(彼は何者か?)」にとどまらない深みがある。
考えてみると、「善きサマリア人」の例え話は、ルカによる福音書10章25節の次の問いかけから始まっている。
さて、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試みようとして言った。「先生。何をしたら、永遠のいのちを受け継ぐことができるでしょうか。」(新改訳2017)
この律法の専門家は、自己義をひけらかしたいと思ったのか、イエスとの問答の果てにこう問いかける。
「では、私の隣人とはだれですか」(10章29節、同)
そしてイエス様が語るのが、「善きサマリア人」の例え話である。この話の肝は、「ユダヤ人から嫌われていたサマリア人が、敵対していたユダヤ人、しかも半死半生状態にあったその人を助け、介抱する」というところにある。
別の見方をするなら、本来このユダヤ人を助けるべき同胞のユダヤ人たち(祭司、レビ人)は見捨てた、という展開をアイロニカルに描いている話である。本来助けることを期待されていた者が助けないで、むしろ敵対関係にあったサマリア人がこのユダヤ人を助けたことで、「善きサマリア人」となったのである。
ネタバレもネタバレになってしまうが、実は本作は、見事にこのイエスの例え話を地で行く展開となっている。つまり、聖書の例え話がネタ元だといってよいような珍しい「スーパーヒーロー映画」が、「サマリタン」である。
「善きサマリア人」がラストに登場する。それが誰であるのか。そして、どうしてその人物が「善きサマリア人」となるのか。
このところはぜひ、皆さんの目で実際に映画を鑑賞して確かめてもらいたい。そしてこの最大のポイントが明らかになることで、おのずと「Who is he?(彼は何者か?)」に対する答えが見つかるような仕掛けとなっている。
アマゾン・プライムに加入している人は、無料で視聴できる。ぜひご覧いただきたい。観終わって、物語をもう一度思い起こし、「善きサマリア人」の例え話と比較するとき、思わず膝を打って「お見事!」という声を上げることになるだろう。
■ 映画「サマリタン」予告編(英語)
■ 映画「サマリタン」のページ(アマゾン・プライム・ビデオ)
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