2016年3月、有名漫画を原作とした映画「ちはやふる -上の句-」「下の句」が公開され、大きな話題となった。少女漫画原作の恋愛映画が多産される昨今において、同じような系譜にあると思わせておいて、年代を越えて感動が拡大していったことも記憶に新しい。
クリスチャントゥデイでも、「上の句」を取り上げ、教会における若者たちへのアプローチと絡めた評論をさせていただいた。実は「下の句」も鑑賞していたためその評論も書いていたのだが、なかなか発表する機会がなく2年がたってしまった。そこで今回は「下の句」を2年ぶりに発表し(関連記事:「21世紀型青春映画」をキリスト教的に読み解くと・・・ 「ちはやふる -下の句-」)、さらに最終話となる「結び」の映画評を新たに書き下すことで、私なりの「ちはやふる」三部作を完結させたい。
本シリーズには表の顔と裏の顔が存在する。表は華やかな青春映画である。売れっ子スターたち(広瀬すず、野村周平ら)を起用し、3月公開にふさわしい色彩豊かなポスターで、中高生に対してアピールしようとする一面。漫画が原作ということも功を奏し、大ヒットにつながっていることから、表の顔は多くの中高生に認知されたといっていいだろう。
一方、裏の顔として見え隠れするのは、「百人一首」という一見とっつきにくい題材を、いかにして中高生世代に浸透させ、和歌の本質を体験させるか、という啓蒙活動である。後者にこそ、キリスト教界との類似性があると私は考えている。そして本シリーズ全体を通して、裏の顔も成功しているのではないかと思わされた。言い換えるなら、類似性を持つキリスト教界にもこの原則を援用することができるということである。
さて、これらを受けての「結び」である。まずこの副題からも分かるように、本シリーズはここで完結となる。そういう意味では、主人公の千早(広瀬すず)が目指した「競技かるたで全国優勝」という目標を達成できたかどうかが物語の焦点となることは、容易に想像できる。
物語は主人公らが3年生となった夏から始まる。1年目とは異なり、競技かるたの世界では名の通った存在へと成長した彼ら。やがて最後の夏を迎え、同時に彼らもそれぞれの進路を決めなければならない時期となる。
意外であったのは、本シリーズを通して真の主人公となったのが、千早を見守っていたはずの太一(野村周平)という少年であったこと。作品のタイトルとも重なる「ちはや」という名を持ち、競技かるたの天才的なセンスを持っている千早が「持っている人」であるとするなら、太一は「持たざる人」である。
本来なら、千早という光り輝く太陽のもと、月か衛星のようなわき役となるはずの彼が、「自分は何者か」というアイデンティティークライシスを乗り越えることがクライマックスとなり、それが千年以上前に詠まれた和歌の内容ともリンクし、観客に感動を与えるという構図になっている。
これによって、観客は千早との関連が薄くなる代わりに、悩んだり苦しんだりしながらカッコ悪いけども一生懸命な太一の姿に自分を重ねることができる。そうやって共感できるキャラが前面に出ることで、「競技かるたで奮闘する高校生の物語」から「今を生きる人として、どちらの道に進んだらいいか悩む私の物語」へと映画の質が深まっていく。そして、彼の葛藤に答えを与えるのが「和歌」であることも、「ちはやふる」という世界観ならではの着地点である。
千年以上前に詠まれた「和歌」その存在、その歌の意味が、今生きて悩みを抱える太一の「ある選択」へとつながり、ひいては本シリーズ最大の課題(全国大会優勝)に答えを与えると同時に、彼の生き方をも新しい存在へと変化させていくのである。
「ちはやふる」が百人一首を扱った作品であればこそ、本作を通して、観客はいつしか自分の人生が「和歌」によって新しくされるという体験をすることになる。
実はこの質的変化(共時的体験)を生み出す装置として、最古から私たちに与えられている書物こそ「聖書」である。聖書の登場人物が葛藤し、決断し、行動する。そう思って読んでいると、いつしか「私の」決断となり、行動を促す動機付けとなる。すると、聖書の言葉が私の心に響いてくる。
このような共時的な解釈を可能にする装置として、映画や漫画以前に存在していたのが聖書であったことを考え合わせるなら、本作はまさに「ナラティブ(物語ること)」としての聖書学が現代的に敷衍(ふえん)した一形態ともいえるだろう。
本作の観客として中高生がターゲットとされているとよくいわれる。この映画を見て感動し、ヤフーの映画投稿コーナーに中高生のコメントが多く寄せられていることからも、ねらいは成功したといえよう。もし彼らが「ちはやふる」で共時的体験の素晴らしさを獲得することができたとするなら、次に彼らは同じ体験を聖書でも味わうことができるはずである。
なぜなら、彼らにとっては「ちはやふる」という漫画、映画がなければ、日本で伝統的に継承されてきた「和歌」にさしたる興味を持つことはなかったろう。英単語の暗記や数学の公式と同様、和歌をただ丸暗記して、その意味を機械的にインプットするだけで終わっていただろう。しかし本作を通して、彼らの世界観に変化が生じたのである。
同じ原則は聖書にも当てはまる。キリスト教なんて「数多ある諸宗教のひとつ」であり、「自分とはまったく無縁の存在」と受け止めている若者たちは多いだろう。しかし、そんな彼らが「ちはやふる」のようなエンタメを加味した「共時的体験」の肯定的な側面を味わうことができたとしたら、同じ原則で「キリスト教」「聖書」に向き合うことだってできるはずだ。問題は、キリスト者(牧師のみならず)が大胆に、そして知恵を出し合って若者に届く「聖書の語り」を追究するならば、であるが・・・。
私たちキリスト者は、聖書のコンテンツには自信を持っている。しかし、これをどうやって分かりやすくかみ砕き、どんなやり方で、誰に訴えかけるかについては、従来の神学的枠を出ることがなかったと思われる。
キリスト教会へ若者がやってこない、という嘆きの声が上がって久しい。いつしかそういった問題意識すら持てないのが現状である。そんな時、私たちはコンテンツではなくツール(伝達方法)にこそ目を留めてみるべきではないだろうか。
映画「ちはやふる」シリーズは、中高生が見ても、大人が見ても楽しめ感動できるエンタメである。同時に、キリスト者だからこそ理解できる奥深さもそこには秘められている気がしてならない。
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